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第77話 還る温もり
しばらくして、廊下の奥から足音がした。
「陛下」
清朗だった。
帳を脇に抱え、こちらへ歩いてくる。縫季に気づき、軽く頭を下げた。それから花壇の帝辛へ目を向け、困ったような顔をした。
「また御自身で――」
「うるさい」
帝辛は振り返らずに答えた。
「お前にやらせると、丁寧すぎる」
「丁寧に越したことはないでしょう」
「花は、少し雑に扱ったほうが強くなる」
清朗が小さく息を吐いた。呆れているのか、判別がつかない。
「……また、そのようなことを」
帝辛は土を一つまみ、指の間でほぐした。
「朝議まで、まだあるか」
「はい。少し」
「ならば待て。もう少しで終わる」
「……かしこまりました」
清朗は帝辛の隣に立った。手伝うでもなく、急かすでもなく、ただそこにいる。
縫季は廊下から、その光景を見ていた。
(……清朗)
別の清朗の顔が浮かぶ。笑顔のまま泣いていた清朗。帝辛のために壊れていった清朗。
この線の清朗は――
笑顔のまま、泣いていない。帝辛の傍にいながら、壊れていない。
適切な距離がある。敬愛がある。だが、それ以上には踏み込まない。
(……なぜだ)
縫季は胸の光に触れた。
答えが返ってくるように、光が震えた。
(……そうか)
帝辛が、孤独を自分で処理していたから。
狂楽香がなかった。黒闢が遠かった。帝辛は傷つく前に、もう自分で立っていた。
清朗が「救う側」に立てる隙が、なかったのだ。
(清朗は帝辛を愛していないわけじゃないだろう)(ただ――この帝辛は、誰かに救われる前に)(もう、立っていた)
帝辛が道具を置いた。手の土を、布で拭う。立ち上がり、花壇を見下ろす。
「……咲いているな」
独り言のような声だった。
清朗が頷く。
「はい。今年は特に、白いのがよく咲きました」
「先王が好きだった色だ」
「存じております」
短い沈黙。
帝辛が清朗を見た。
「朝議で東方の件、また揉めるだろう」
「おそらく」
「……余が決める。お前は余の隣にいろ」
「はい」
それだけだった。
命じるでもなく、縋るでもなく。
ただ、隣にいろと言う帝辛。ただ、はいと答える清朗。
縫季の胸が、静かに軋んだ。
(……この関係が、正しい形だったんだ)
あの世界線では辿り着けなかった形。善意が刃にならなかった形。帝辛が孤独に押し潰される前に、ちゃんと立っていた形。
縫季は廊下から一歩、庭へ踏み出した。
◆
帝辛が縫季に気づいた。
「……来たか」
「はい、花壇を。……お邪魔でしたか」
「そんなことはない」
帝辛は少し目を細めた。
清朗が縫季を見た。穏やかな目だった。
「こちらの方は?」
帝辛が答える。
「通りすがりだ」
縫季は、その言葉に胸が揺れた。
自分が言った言葉だ。どこの地でも、私は通りすがりにすぎませんので。
帝辛はそれを、そのまま返した。
縫季は花壇に目を向けた。
白い花が、朝の光の中に揺れている。
胸の光が――震えた。
強く。温かく。これ以上ないくらい、強く。
(……今だ)
縫季は息を吸った。
(ここならお前は――笑顔のお前に、還れる)
光が動いた。
縫季の胸から、静かに流れ出す。
痛みはなかった。温もりだけが、指先まで広がって、それから離れていく。
光は花壇の上を流れた。白い花の間を、風のように抜けて。
帝辛の胸へ、吸い込まれていった。
帝辛が――一瞬、動きを止めた。
花壇を見ていた目が、どこでもない場所に向いた。
「……?」
清朗が気づいた。
「陛下?」
帝辛は首を小さく振った。
「……なんでもない」
「何か感じましたか」
「……いや」
一拍。
「懐かしいような――気がしただけだ」
清朗が不思議そうな顔をする。
帝辛はすぐに花壇に目を戻した。何事もなかったように、白い花を見ている。
ただ、その目が――少しだけ、遠かった。
記憶ではない。思い出したわけでもない。
ただ、胸の奥が温かくなった。どこかで誰かに、会ったことがあるような。そんな、説明のできない感覚。
縫季は、その横顔を見つめた。
胸の中に、光はもうない。
コメント
1件
読了しました…第77話。 「通りすがりだ」、その言葉をそのまま返す帝辛が、すごく好きでした。 縫季の知ってる帝辛とは違う、でも確かに同じ芯を持った人なんだなって。 最後の光の移譲、音もなく静かで、でも確かにそこにあった温もりが、ぎゅっと胸に響きました…。 壊れなかった清朗と、立っていた帝辛。 彼らが見せてくれた“正しい形”の終わり方、とても沁みました。 またゆっくり読みにきますね。