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心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど鳴っている。
耳元を掠めた黒瀬くんの吐息は熱く
微かに混じる甘いカフェオレの匂いが、麻薬のように鼻腔をくすぐった。
「……舞さん?」
名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
そこには、先ほどまでの低く冷たい声が嘘だったかのような
きょとんとした無垢な顔の黒瀬くんがいた。
「あ、えっと、ごめんなさい。……そうね、山ほど教えること、あるんだよね。何から始めようか」
私は逃げるように視線を逸らし、わざとらしく手元のマニュアルを広げた。
指先が少し震えているのを悟られたくなくて、不自然なほどページをめくる音が大きく響く。
定時を過ぎ、他の社員が次々と退勤していくオフィス。
「今度の会議で使う資料のファイリングのやり方をど忘れしちゃったんです…教えてくれませんか?」
静まり返ったフロアで、彼と二人きりという状況が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
「じゃあ、それからかな……」
「はい。舞さんの隣で、しっかり勉強させてもらいますね」
黒瀬くんは当然のように椅子を引き、私のすぐ隣に腰を下ろした。
……近い。
袖と袖が触れ合う距離。
普段の彼なら「弟分だし」と流せていたはずの接触が、今はじりじりと肌を焼く熱のように感じられる。
作業を始めて三十分。
カタカタとキーボードを叩く音だけが沈黙を埋めていた、そのとき。
不意に、私の右手に柔らかな熱が重なった。
「っ、え……?」
見ると、マウスを握る私の手の上に、黒瀬くんの大きな手が隙間なく重ねられていた。
驚いて隣を仰ぎ見ると、彼は至近距離で、真剣な眼差しをモニターに向けている。
「ここ、このグラフの数値……舞さんのマニュアルのデータと、少しズレてませんか?」
「あ、えっ?!本当だ!修正しなきゃ……」
指摘は正しい。
けれど、彼は一向に手をどけようとしなかった。
それどころか、長い指が私の指の隙間に滑り込み、恋人同士のように深く絡める。
そのまま、私の手を包み込むようにしてマウスを滑らせ始めた。
「僕が直しておきますね。…って舞さん、手がすごく冷たいですね」
「く、黒瀬くん?近い、から……離して」
「嫌、ですか?」
遮るもののない距離で、顔を覗き込まれる。
潤んだ茶色の瞳、影を落とす長い睫毛。
その奥に、一瞬だけ、獲物の逃げ場を完全に塞ぐような暗い光が宿った。
「……嫌じゃない、けど。でも、教育係として、こういうのは、あんまり良くないと思うし……」
「『先輩』としての建前じゃなくて、『舞さん』としての本心が聞きたいんです」
「えっ?」
絡められた指先に、逃がさないと言わんばかりの強い力がこもる。
抗おうとするほど、彼の腕の中に閉じ込められたような形になって、身動きが取れない。
マスコットだと思っていた弟分に、完全に主導権を握られ、魂まで見透かされているような心地。
「……舞さん、顔、真っ赤ですよ。可愛い」
彼は楽しそうに目を細めると、私の肩にかかった髪を一房、愛おしそうに掬い上げた。
そして、その毛先に、触れるか触れないかの距離で小さく唇を寄せる。
「ファイリングのやり方は思い出しましたから、ありがとうございます」
「そ、そう?ならよかっ───」
「でも、この続きはまた今度……楽しみにしててくださいね、先輩?」
いつもの甘い呼び方。
でも、その響きには抗えない毒が含まれていた。
私はただ、早鐘を打つ心臓を左手で押さえることしかできなかった。
教育係としての理性が、彼の甘い牙によって、少しずつ、けれど確実に削り取られていく。
窓の外、夜の帳が下りたオフィス街の光が二人の影を長く繋いでいた。
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紺黄@🍌☃️ 🌈🍑