黒いスーツに身を包んだ上背のある男性が、綾野家の引き戸に静かに手を掛けた。戸が滑るかすかな音に気付いた家政婦の多摩さんは、白い割烹着の裾で手を拭きながら、急いで玄関へと迎え出た。そこには、細いフレームの銀縁眼鏡を掛けた男性の背中が、すっと伸びていた。三和土に黒い革靴が丁寧に揃えられ、静かな威厳を漂わせている。
「あらあらあら、あんたかいね」
「婆ちゃん」
「なに、今日は母屋に用事なんか?」
「あぁ、湊さんに呼ばれとるんや」
「そうか、そうか」
「湊さんは?」
多摩さんが「湊さんなら、奥の和室にいるよ」と告げた。男性はギシギシと音を立てる縁側を進んだ。青々とした芝生が広がる庭園には、石楠花の花が鮮やかに咲き誇り、その美しさにいつ来ても見惚れてしまう。心を奪われながら歩を進めると、突然、湊から穏やかな声で呼び止められた。和室に通され、2人は畳の上で真向かいに正座した。静かな空気の中、湊の落ち着いた瞳が男性を見つめる。庭の花の香りがほのかに漂い、部屋に安らぎを与えていた。男性は姿勢を正し、湊との会話に備えた。過去と未来が交錯するような、緊張と期待が混じる瞬間だった。
「佐々木」
「湊さん、お待たせしました」
「いや、急がせてすまない」
「いえ、今日はどうなさいましたか?」
湊は押し入れからゴミ袋を引き摺り出すと、スーツや白い小箱を取り出し、佐々木の前に広げて見せた。
「今日は顧問弁護士ではなく、一弁護士として佐々木に頼みたい事がある」
「それは、どういう意味でしょうか?」
「綾野住宅株式会社ではなく、僕からの依頼だ」
「湊さん、個人の」
「うん」
家政婦の多摩さんの孫、佐々木冬馬は、綾野住宅株式会社の顧問弁護士として辣腕を振るっていた。湊は、賢治の不倫行為という身内の恥を外部に晒すことを避けたい一心で、佐々木に相談を持ちかけることにした。佐々木の冷静な判断力と信頼性なら、穏便に事を進められると湊は信じていた。座敷で向き合った佐々木は、銀縁眼鏡の奥で鋭い目つきを光らせ、湊の話を静かに聞いた。賢治の裏切りが菜月に与えた傷を思うと、湊の胸は締め付けられたが、佐々木の落ち着いた声に希望を見出した。解決への道筋を模索する二人の会話は、午後の静けさに吸い込まれた。
「これは、なんでしょうか」
佐々木は、白檀の香りが匂い立つ、スーツジャケットとカルバンクラインのネクタイを前に、顔を顰めた。次に湊は、白い小箱を開け黒い口紅を見せ、如月倫子の名刺や同窓会の往復はがきの片割れを畳の上に並べた。
「これは、いったい」
「名刺を見てくれ」
「はい」
淡いピンクの名刺にも、毒々しい淫靡な香りが染み付いていた。
「きさらぎ広告代理店」
「そう」
「香林坊ビルの所有者ですね」
如月倫子の夫は、金沢市の一等地にそびえる10階建てのビルを所有していた。1階は賑わうテナントとして貸し出し、2階以上のオフィスフロアは活気ある企業で埋まっていた。上階は高級分譲マンションとして、洗練された住人たちが暮らしていた。ビルのガラス張りの外観は、金沢の街並みに映え、倫子の夫の成功を象徴していた。
「この、如月倫子さまがなにか?」
「如月倫子に”さま”は要らないよ、如月倫子は賢治さんの不倫相手だ」
「え…不倫相手、ですか?」
「そう。賢治さんは不倫をしていると僕は思っている」
佐々木は、目の前に広げられた不倫の証拠。写真やメッセージの束を前に呆然とした。これまで綾野住宅株式会社の顧問弁護士として、社長の賢治に忠実に尽くしてきたが、彼の裏切り行為を示すその品々に、佐々木は言葉を失った。賢治の普段の堂々とした態度や自信に満ちた笑顔からは、こんな裏の顔は微塵も感じられなかった。佐々木の胸には、怒りと失望が渦巻いた。菜月の傷ついた顔を思い浮かべ、賢治への信頼が音を立てて崩れるのを感じた。冷静さを取り戻しつつ、佐々木はこれからの対応を頭の中で整理し始めた。
「まさか、そんな」
「それから、これを見てくれ」
湊はスーツの胸ポケットから封筒を取り出した。中には、若い女性の写真が入っていた。それを受け取った佐々木は、眼鏡のつるを上下させた。
「この女性が、如月倫子ですか?」
「いや、違う」
「違う?」
湊は、次にSDカードを手渡した。
「これは、賢治さんの車の車載カメラのSDカードなんだ」
「はい」
「ここに、その女性が写っていた」
「はい」
「際どい画像だから、不倫の証拠にはなるよね?」
「はい、拝見しないと断言はできませんが、証拠になると思われます」
そこで大きな溜め息が漏れた。
「どうなさいましたか?」
湊は佐々木に、如月倫子が菜月のマンションを訪ねてきたことを静かに話した。倫子の突然の訪問は、菜月の心をさらに乱したようだった。湊の声には、菜月への心配と、倫子の意図への疑念が滲んでいた。佐々木は銀縁眼鏡の奥で鋭い視線を向け、湊の言葉を慎重に聞きながら、賢治の不倫問題と倫子の関係を頭で整理した。倫子の訪問が、ただの偶然なのか、何か企みを秘めたものなのか、佐々木の胸に不穏な予感が広がった。湊は菜月の憔悴した姿を思い出し、彼女を守るための一手を模索していた。
「ご自宅に!」
「そう、怖いよね。菜月には困っちゃうよ」
「それで、菜月さんは今もマンションに?」
「いや、一昨日、うちに帰って来た」
「そうですか」
佐々木は安堵の息を漏らした。然し乍らそれは、驚きの声へと変わった。
「菜月は、この女性は如月倫子じゃないと言った」
「どう言うことですか?」
「不倫相手が2人いるって事だよ」
佐々木は唾を飲み込んだ。
「ふた、りですか」
「そう、2人いるんだ」
「信じられません」
「僕も信じられなかったよ。生真面目そうな人だから、迂闊だった」
「それで、菜月さんはどうなさるおつもりでしょうか?」
「離婚を希望している」
「協議離婚、ですか」
湊は佐々木ににじり寄った。
「このSDカードに写っている女は、四島工業の社員だ」
「どうしてそれを」
「四島工業の、制服を着ている」
「制服を、それは浅はかでしたね」
「その女を調べて欲しい」
「かしこまりました」
「あと」
湊は佐々木に、菜月と賢治の離婚は協議離婚で進め、裁判所に持ち込むつもりはないと伝えた。この狭い業界では、どこから噂話が広がるか分からない。湊は菜月の名誉と心の平穏を守るため、出来る限り穏便に事を済ませたいと強く願っていた。賢治の不倫という醜聞が公になれば、菜月の傷はさらに深まる。佐々木は冷静に頷き、湊の意図を汲んで穏やかな解決策を提案した。湊の胸には、菜月の憔悴した顔と、彼女の未来への希望が交錯していた。静かな決意を胸に、湊は佐々木と具体的な手続きについて話し合った。
「それでは」
「うん、公証役場での公正証書作成で終わらせたい」
「はい、ではそのように手続き致します」
湊は、証拠品の数々を風呂敷で包み始めた。ふと、気付いた佐々木は湊の顔を覗き込んだ。
「湊さん」
「なんだい?」
「その四島工業の女性社員は承りましたが、如月倫子はどうなさるおつもりですか?調べなくても宜しいのですか?」
ふっ、と口角を上げた湊は、風呂敷をキュッと縛った。
「如月倫子は、僕たちが探す」
「たち、とは菜月さんと、という事ですか?」
「そうだよ」
「大丈夫でしょうか?」
「見つけた後は、佐々木に任せる」
「かしこまりました」
風呂敷包みを手渡した時、佐々木の目が湊の背後で留まった。
「それ」
見つめる先には、錆びた丸いクッキーの缶があった。
「あぁ、それは郷士さまが出張の折に買って来て下さったお土産ですね」
「そうだよ、懐かしいだろ」
「懐かしいですね」
郷士は、家政婦の多摩さんと一緒に綾野の家に出入りしていた幼い佐々木にも、我が子同然分け隔てなく接していた。
はらり
1枚の紙が畳の縁に落ちた。
「あっ!見ちゃ駄目!」
佐々木が手にした、キャラクターが印刷された便箋には、鉛筆書きの幼い願い事が綴られていた。
なつきとけっこんできますように
みなとのお嫁さんになれますように
「可愛らしいですね」
佐々木が微笑むと、湊は「だから、見ちゃ駄目だって言ったじゃないか」と顔を赤らめ、慌ててその便箋を錆びた缶に仕舞った。だが、佐々木の表情が急に真剣になり、湊へと向き直った。
「湊さん」
「なに?」
「『民法734条1項ただし書き』はご存知ですか?」
湊の顔色がさっと変わった。
「養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」と佐々木が続けた。
「それは…」
「湊さんと菜月さんのように、両親の連れ子で血縁関係がなければ、婚姻関係を結ぶことが可能です。」
「佐々木」
湊の声は震え、驚きと戸惑いが交錯した。佐々木は風呂敷包みを脇に置き、太ももに両手を突いて深々とお辞儀をした。
「それだけをお伝えしておきます。」
静かな部屋に佐々木の言葉が重く響き、湊の胸に新たな可能性と葛藤が芽生えた。菜月の笑顔が脳裏に浮かび、湊は言葉を失ったまま立ち尽くした。
カコーン
鹿威しの深い音色が離れの座敷に響いた。
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