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#ワンナイトラブ
私だって、苦手なものはある。多足類や蜘蛛類は大嫌い。
……チャンスはまだある。小さくて、脚が短いやつなら何とか……。
部屋の隅で肩を震わせながら周囲を見渡した。
開け放たれた窓、真っ白な壁には何も違和感はない。
なんだ、居ない。きっと窓から逃げ…………
と、流れるようにコピー機の上に視線が移動した時、対象物を発見した。瞬間、ヒュッと喉が鳴って、頭を手で守るように屈めた。
あぁ、目眩がする。今目が合った、だめだ追い掛けられる。圧倒的に私が苦手な類の蜘蛛だ。
スプレーは無いの、だれかあの凍るスプレーを今すぐここに……!!
縋る思いで震える手は半ば無意識のうちにスマホを手に取った。指先は勝手にその番号を押す。
乾いた電子音が鳴り響くと、プツリ、音が途切れたと同時に「と、常葉くん〜〜〜っ」泣きそうな声を吐き出した。
『……どうしたんですか』
「スプレーがなくて、ほら、お家にあるでしょ、虫を凍らせるあれ」
『は?何が?』
「持って来て?凍らせたいの、コピー室で私が、カシューナッツのような父を!」
『とりあえず落ち着いて、事務課の?』
「そう、コピー室」
『ちょっと待ってて』
待ってて?いつまで?すぐに持ってきてくれるのかな……。
でも常葉くんが来てくれるならきっと大丈夫だ。
へなへなと力が抜けスマホが手から落ちると、再び身を縮こまらせた。
まだかな、遅くないかな。
震える自分を守るように二の腕をぎゅっと握りしめて身を縮こませる。
「穂波さん、開けますよ」
扉越しに声が届くと同時に扉が開いた。姿は確認できないけど、香りが届けばすぐに空気が入れ替わる。
「どうしたの依愛」
背中を大きな手のひらが優しく触れる。心配そうな声に振り向くと、常葉くんもまた肩で息をしていた。
「あの、蜘蛛が……」
「……蜘蛛?」
「コピー機の上に居るでしょ?」
コピー機?そう言って常葉くんの顎がキョロキョロと忙しなく揺れる。ふと、その動きが一点でピタリと止まった。
「…………………あ、居た」
「は、早く凍らせて!」
「ちょっと待ってて」
「嫌だ、待って、どこ行くの!?」
必死でジャケットを掴むと「逃がすから」そう言って常葉くんは瞳を柔らかく細める。
コクコクと頷いて再び背を向けれは壁を叩く音が耳に届いた。
まだかな。祈る様に目を閉じて音だけ耳が拾う。
すると、背中をちょん、と、指でつつかれ咄嗟に振り向いた。
そこには満面の笑みの常葉くんが居るから、やっと胸を撫で下ろす。
それも束の間で「わっ」と彼は握りこぶしを開くので条件反射で「ひゃぁ!」と飛び跳ねて再び距離を取った。
彼は直ぐに背後から抱き寄せ、私を腕の中に閉じ込める。
「ははっ、嘘だよ、逃がしたよ」
「あ、遊ばないでっ」
「ごめん、つい」
慌てる私がそんなに面白いのか、常葉くんは涙袋を浮かべて屈託なく笑う。
悔しいのに、その笑顔を見たら怒りは勝手に鎮まるのだから、それも悔しくて堪らない。
「あの……ありがとう」
スカートの裾を握り締めて告げると、常葉くんは「どーも」と一言零して私の頭にぽん、と手を乗せた。
嬉しいのに、どうしてか鼻の奥が冷たい空気を吸い込む。
『今日の、夜の8時』
頭の奥に浮かぶ、幸せそうな笑顔。
口の中で、言葉を何度も噛み砕いては呑み込んだ。
…………言わなきゃ、言わなきゃ。
これ以上力を込めるとスカートが皺になりそうなのに、それを厭わず握り締める。
「……あの、常葉くん」
「何?」
何も知らない常葉くんの手のひらは、次第に私の前髪を撫でる。私を落ち着かせようとしてくれているんだ、それが分かると下まぶたから涙が溢れそうになる。
「……あ、あの……」
見上げていた視線をのろのろと落とした。喉も震える、出したい言葉は情けなく何度も呑み込んだ。
分かるよ、好きな人と、一緒に居たい事。
分かるよ、私だって常葉くんと離れたくない。
……分かるよ、好きなんだよね。
「……今日の夜、ご飯食べに行ける?」
「良いよ、行こ」
見上げれば常葉くんは満足気な笑顔を私に向けるから、きゅっと胸が茨で締め付けられる。
………私、じゃなくて。
「ま、なべ、さんと……」
震える声が届いたのか、常葉くんは手を止めるとすぐに眉根を潜めた。
「三人で行くってこと?」
「……常葉くん、と、眞鍋さんが」
声に出すと、泣きたくなるから息を短く吸い込む。
常葉くんも完璧に理解したのだろう、私に触れていた手は自然と離れた。
「なんで美子と行かなきゃなんねーの」
同じ人から出されたものとは到底思えない、信じられない程冷たさを帯びた声。
「眞鍋さん、常葉くんと話したいって」
「何を話すの、会社で良いじゃん」
「……ほら、ここじゃ話せないこともあるんじゃないの?悩みとかあるだろうし、お酒飲みながら、」
「…………なんで俺が」
嘲笑した息を吐き出し、興味もなさそうに流れていた視線は、再び私を捉えた。
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