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ハンカチを踏まれた。『アイスクマ』というキャラクターもののお気に入りのハンカチだった。
青井水姫がそれを廊下に落とし、拾おうとした時、向こうから走ってきた女子に思いきり踏まれた。上靴の跡がしっかりついた。どうやら鬼ごっこをしているらしく、その女子が気付かず走り去った直後、もう一人鬼役の女子が走ってきた。
「ねぇ待って!早すぎだってー!」
騒ぎながら、そいつもハンカチを踏んでいった。待ってほしいのはこちらなのだが。
いかにもギャルっぽい金髪、開けたYシャツの襟、謎に十字架のネックレス。
同じクラスの 大野陽葵だ。といっても一切関わったことがないのでよく知らない。ただ騒がしい人たちとつるんでいて、毎日呑気そうだなという印象しかない。
大好きなアイスクマがぺしゃんこに。しかも限定商品だったのに。水姫は拳を握り締め、勇気を出して呼び止めた。
「あ、あの!私のハンカチ踏んだよ!」
「え?」
陽葵がきょとんと振り返る。まず無視しなかっただけマシだ。だが問題はここから。
「あ……」
ハンカチの存在に気付き、陽葵は気まずそうな顔をする。数秒の沈黙。そこで謝ればよかったものを。
「何してんの陽葵!足遅いなー!」
遠くからさっきの女子に煽られて、陽葵はそっちに反応した。
「ちょっ、今何つった!?」
水姫に背を向けて走り去っていく。
──やっぱりこうなった。水姫は遠ざかっていく背中に向かって『転べ』と念を送った。
廊下の水道で一人、ハンカチを洗う。こんな仕打ちを受けなければならないのは、自分が地味なぼっちキャラだからだろう。可愛い人気者だったら、謝るどころか新しいものを弁償して、ついでに友達になれたかもしれない──なんて、被害妄想のしすぎかもしれないが。
とにかく今は、陽葵がクラスで人気者の扱いをされていることが信じられなかった。彼女はいつも友達に囲まれ、女子にも男子にもモテて、ギャルみたいな外見なのに勉強がそこそこできるから先生にも気に入られている。
自分だって人に優しく真面目に生きてきたつもりなのに、この差は何だろう。謝れない陽葵が幸せそうで、謝りすぎてしまうような自分は幸せじゃない。この世界は本当に不平等だ。
苛立って、ハンカチを擦る手にどんどん力が入る。たかがこんなことで涙が滲みそうになる。
その時、ふと背中に視線を感じた。
「ん?」
振り返ると、目の前に陽葵が立っていた。
「うわぁ!?」
水姫は思わず声を上げて後ずさった。それはそうだ、並んでいるとしてもこんな音もなく近付かれたら。
多分さっきのことなんてとっくに忘れて、『早く洗い終われよ』とか『何驚いてんだよ』とか思ってるんだろうなと勝手な想像をしつつ、横にずれる。
まだ洗い終わっていないくせに。少心者の自分がつくづく嫌になる。
「待って」
すると、陽葵が声を発した。なんだろう、文句でもあるのだろうか。期待せず振り返ると、陽葵は頭を下げた。
「さっきはごめん」
それもきっちり45度で。
なんだ、ちゃんと謝れるんじゃん。と上から目線で感心しつつも、それならなぜ一回無視したのだろうという疑問が残る。
陽葵は半分頭を上げ、尚俯いた状態で答えを口にした。
「私、実は人見知りなんだ。だから咄嗟にパニックになって逃げた。でもそれを言い訳にしちゃいけないと思う。本当にごめん」
それは言い訳というより、告白だった。衝撃のあまり水姫は固まった。嘘かと思って顔を確認してみるが、至って真険な、というより思い詰めたような表情で、今のところ演技には見えない。
どちらにせよ、ひとまず謝ってもらえただけで十分だ。
「全然大丈夫。むしろ滑って転ばなくて良かったよ」
さっき転べと念じたのが嘘かのように、精一杯爽やかに微笑んでみせる。それがぎこちなかったのだろうか。陽葵はまだ納得していないようだった。
「ハンカチ洗うよ」
「ううん、もう洗い終わったから」
「だめ、まだ汚れてる」
陽葵はハンカチを取って広げる。そしてなぜか、そのまま固まった。
「ね、時間かかりそうでしょ。後は自分で」
「いや、これ、アイスクマ……」
『アイスクマ』という単語が陽葵の口から飛び出た瞬間、水姫の全身に鳥肌が立った。アイスクマは知る人ぞ知るキャラクターなのに。校内でも好きな人は自分くらいだと思っていたのに。そのハンカチにアイスクマという文字は一言も書かれていないのに、一目見ただけで分かるなんて。
「ど、どうしてその名前を……?」
恐る恐る尋ねると、陽葵はアイスクマのイラストを見つめたまま言った。
「Tmitterの公式アカウントフォローしてて、毎日イラストチェックしてる」
自分と一緒だ。ガチファンだ。というかTmitterをやっているのがそもそも意外だ。てっきりイムスタのキラキラリア充アカウントをぶん回しているのかと。
「あっ見る専ね、見る専」
聞いてもいないのに答えながら、陽葵はハンカチを洗い始めた。物凄い勢いで。自分が好きなキャラクターだったから余計気合が入っているのだろうか。
アイスクマ好きに悪い人はいない、と言ったら主語が大きすぎるが、でも思ったよりは良い人そうだ。
一生懸命な背中を、水姫は安心して眺めていた。
「……どうかな」
3分後、渡されたハンカチは新品のように綺麗になっていた。
「うわあ凄い!ありがとう!」
もはや落としたことがラッキーだったように思えてくる。
「きっとアイスクマも喜んでるよ!」
つい流れで変なことを言ってしまった。前にもこういうことを言って、クラスメイトに引かれたことがある。
だが陽葵は変とは思わないようだった。
「それなら良かった」
安心したように笑った。初めてちゃんと見る笑顔だった。
──良い。不覚にもそう思ってしまい、誤魔化すように水姫は慌てて手を振る。
「そ、それじゃあこれで」
「あっ、うん」
手を振り返しながら、陽葵は戸惑った様子だった。
別れが唐突すぎたか。どうせ同じ教室に戻るのに、待たずに先に行くのは失礼だったか。モヤモヤしつつも引き返せず、早足で廊下を進む。
本当に自分は小心者だ。だから今後二度と関わりがなくても、変に思われても──人気者と共通点があった、皆が知らない面を知ることができた、それだけで水姫は満足だった。
それから3日後。水姫は今まで通り、陽葵とは一言も交わさず、目すら合わない日々を送っていた。別にそれでいい。話していたら周囲からも変に注目されるし。
──ただどうしても、気になることがあった。
昨日Tmitterに上がった、アイスクマの最新イラスト。それは、アイスクマが友達に大事な話をする直前、日光で溶けて消滅してしまうというものだった。
名前通り身体がアイスでできているのだから当然の結末だ。可愛いが故に儚い、それがこのキャラクターの売りだ。
しかし分かっていても、やはり悲しいものがあった。
陽葵はどう思っただろう。何とも思っていないかもしれないし、見てもいないかもしれない。あの場で話を合わせてくれただけで、そんなに好きじゃなかった可能性の方が高い。
でもそうやって勝手な憶測を立てて躊躇っていたら、大事な話ができないまま溶けてしまったアイスクマのように後悔するかもしれないし──
ぼうっと考えながら廊下を歩いていたら、また同じハンカチを落とした。せっかく洗ってもらったのに汚れてしまう。慌てて拾おうとして──
またハンカチを踏まれた。しかも今度は引きずられた為に、布が裂けた。そんな馬鹿な。
「アハハハ!!私のスピードについてこられるかなぁ!?」
「あーもう、あいつ絶対上靴にバネ仕込んでるじゃん……!!」
案の定鬼役としてやって来た陽葵は、破られたハンカチを見て固まった。
「……あっ」
数秒の沈黙。上靴にバネを仕込んだらしい女子はとっくにいない。廊下で二人、立ち尽くす。
「……ごめんなさい……」
とうとう謝罪が敬語になった。
全然大丈夫、と水姫はまたすぐに許したかったが、二回目、それも破損したとなると流石に快くとはいかなかった。
「また落とした私も悪いし、いいけど、ただ……高1にもなって廊下で鬼ごっこはどうなのかな……」
注意しておきながら声が小さすぎて我ながらダサい。陽葵は依然として俯いている。逆ギレされたらどうしよう。
「……うん、私もそう思ってる」
あっ思ってるんだ。
「何度もやめようって言ったけど聞かなくて。ノリ悪いってハブられるのも怖くて」
それにしては随分楽しそうだったが。
「でもいい加減今日でやめるよ。あいつ違反行為してるし」
「うん、違反者は相手にしない方がいいね」
「あとそのハンカチ、弁償するよ」
「えっ?いやいやいいよ!」
流石に気が引けて、水姫はブンブン手を振って断るが、陽葵は「同じの売ってるかな」とスマホを取り出す。
「通販だよね。垢のプロフ欄のリンクから飛べるかな」
アカウントを垢と呼ぶタイプらしい。
「うわ、軒並み売り切れ。もしかしてもう売ってない?」
「うん、限定商品だったから」
「そっかー……」
陽葵は頭を抱える。
「ネット発だから商品自体あんまり展開されてないだろうしな……」
流石、詳しい。
「他に欲しいのある?といってもアイスクマじゃなきゃ意味ないよね……」
「あ、そういえば今週の日曜にラバーストラップのガチャガチャが出るって告知してたような気が」
「それだ!」
太陽は人差し指を水姫に向けた。それからすぐ気まずそうに手を降ろし、目を背ける。別に何も気まずくないのに。
そういえば話している時、基本目が合わない。人見知りも事実である可能性が高くなってきた。
「……じゃあ、そういうことで」
陽葵は背まで向ける。そういうことでって、どういうことだっけ。
「えっとそれは、大野さんがガチャガチャをしてきてくれるってこと?」
大野さんって初めて呼んだな。
「うん、見つけ次第」
「ありがたいけど、でも私もその日にやりに行こうと思ってたんだよね」
「あーそうか、自分でやりたいよな、被るし」
「うん、コンプリートもさせたいし、だから……」
つまり何が言いたいかというと。
「私も一緒にやりに行っていい?」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「え?」
きょとんとした陽葵を見て一気に後悔に襲われる。
誰がお前なんかと。そんな声が聞こえてくる。
でもその声の主は自分だ。たとえ陽葵がそう思ったとしても、それを表に出さずに断ってくれるだろうという期待があった。
何より、アイスクマのことになると熱が入った。
「人数が多いほどコンプリートしやすいし、どうせなら。嫌だったら一人で行ってくるけど」
「分かった、そうしよう」
陽葵はすんなり頷いた。
「じゃあ日曜、ショッピングモールで」
「待ち合わせの時間と場所は?」
「変わるかもしれないからLIME交換しておくか」
「そうだね、教室からスマホ取ってくる」
平然と言いながら、水姫は激しく動揺していた。公式アカウントで埋まっている欄に、まさか友達を追加する日が来るとは。話が上手い具合に行き過ぎている。罰ゲームだったらどうしよう。
失礼なことを思いながら急いでロッカーから廊下に戻ると──陽葵は居なくなっていた。やっぱり罰ゲームだったのか。一気に身体が冷える。
「青井さん、こっち」
声がした方を見ると、奥の準備室から陽葵が顔を覗かせて手招きしていた。
青井さんって呼ばれるのも初めてだな。
にしてもなぜこんなところで。自分と話しているところをそんなに周囲に見られたくないのか。見られたくないんだろうな。
分かっていながらも少々ショックを受けつつ中に入ると、それを察したように陽葵が答えた。
「わざわざごめん、あいつらがいると失礼なことばっかり言うと思うからさ」
「なるほど」
勝手に毎日呑気そうだなと思っていたが、騒がしい友達の相手もなかなか大変そうだ。
「でも先生に見つかったら怒られないかな」
「大丈夫、ほぼ物置きと化してて使われてないし、中から鍵かけられるし」
ガチャリと鍵をかける陽葵。この手慣れ方。
「もしかしていつも使ってる?」
「うん、一人になりたい時に休んでる」
悪い生徒じゃん。見た目通り不良じゃん。内心で大袈裟にツッコむ。
でも気持ちは分かる。
「なんか秘密基地みたいだね」
「そう、まさにそんな感じ」
「いいね」
「あ、使いたかったら青井さんも使っていいよ」
別に肯定しただけで、『いいな』と羨ましがったわけではないのだが。確かに休めるものなら休みたいが──なぜ自分なのだろう。アイスクマ好きといい、人見知りといい、
「私に教えていいの?」
水姫が思わず尋ねると、陽葵は「あ」と口をつぐんだ。あって何だあって。
「なんか自然と教えてたな。青井さんはなんとなく、バラさないでくれるような、話を聞いてくれるような気がして。なんだろう、私と似たものを感じるからかもしれない」
なんかとかなんとなくとか曖昧だ。あと秘密基地という自分のテリトリーに入った途端、饒舌になった気がする。
「あっいや、私が勝手にそう思ってるだけだから気にしないで」
「うん、ありがとう」
「え?」
「あっううん、何でもない」
水姫も自然と礼を言っていた。不快ではなく、少し、いやかなり嬉しかったからだろう。真逆だと思っていた人から似ていると思われていたなんて。自分と話したくないだろうと思っていた人が自分と話したがっていたなんて──ますます自分である理由が分からなくなったので、考えるのをやめて水姫はスマホを掲げた。
「じゃあ交換しよう」
といっても方法が分からないのだが。
「あれ、どうやるんだっけ」
やったことがあるけど忘れたという体で首を傾げる。
「えっと、ここのQRコードを出して……」
陽葵が近付く。この程度で手汗が凄い。バレたくない。気にするほど、二人の手が不意に触れる。
陽葵も手汗をかいていた。
「あっ、ごめん」
「ううん。QRコードか、便利だね」
水姫はまたしても安心した。そして理解した。確かに自分たちはどこか似ている。
「便利だけど、もしかして青井さん、LIME交換したこと」
そこでチャイムが鳴り、水姫は質問に答えることなく鍵を開けて廊下に出た。でもやっぱり無視はできず、前を向いたまま答えた。
「勿論ないよ」
「そっか」
隣を歩く陽葵は、心なしか嬉しそうだった。