その夜鈴子のマンションに定正が遅くやってきた、鈴子は玄関で定正を迎え入れ、ギュっと抱きしめた、定正も長い間鈴子を優しく抱きしめていていた、そしてやがて彼が口を開いた
「来週・・・出張でオーストラリアに行くんだけど・・・一緒に行かないか?」
二人はじっと見つめあった、そして鈴子が答えた
ニッコリ・・・「ハイ・着いてきます」
・:.。.・:.。.
二人はオーストリア航空の便に乗り込んだ、ウィーン国際空港へ向かう直行便は、12時間あまりの空の旅
機内では鈴子が窓辺に頰杖をついて雲海を眺めながら言った
「スイートを二つ予約しておきましたからね、その方が一目につかないでしょ」
機内の薄暗い照明の下で定正はシャンパングラスを傾けて采配の効く愛しい秘書に微笑んだ
二人がウィーンに降り立ったのは早朝だった、空港のガラス張りのターミナルから見える街並みは、黄金色の光に包まれ、鈴子の心を瞬時に奪った
タクシーで市内へ向かう道中、定正が説明した
「ここはヨーロッパの中心、オーストリアの心臓部・・・ハプスブルクの栄華が息づく街だよ、今日は仕事だから夕方まで一人になってもらうけど、大丈夫かい?」
「私のことは心配しないでください」
「この街には見るものが沢山あるから大いに楽しんで、でも危ないと思ったらホテルにいてくれよ、夜は運河でデートしよう」
鈴子は頷きながら、窓から流れるバロック建築の街並みに目を輝かせた、ホテルに着くと部屋の窓からはドナウ川の穏やかな流れが見えた
鈴子はウィーンの街をガイドを付けて散策した、シュテファン大聖堂の尖塔が空を突き刺す旧市街を歩き、カフェでザッハトルテを食べた、ほっぺが落ちそうにおいしかった、それでもどこに行っても思い出すのは定正の事だった
道を歩くと、宝石店や皮革製品店やレストランなどが軒を連ねている、そんな店のいくつかに立ち寄って、鈴子は部下達へのお土産を買った、受付嬢達には高価なスカーフを、ネクタイは増田達に選んだ
夕刻が近づくと、仕事から帰った定正は鈴子の手を引き、ドナウ運河のほとりへ連れて行った
ウィーンにはヴェネツィアのゴンドラを思わせる細長いボートが何艘も運河を優雅に滑っていた、運河は街の古い心臓部を流れ、両岸に中世の石畳とカフェの灯りが揺らめく
定正は船着き場で船頭を呼び止め、二人分のチケットを買った
「今夜は、これでデートだよ」
ボートは静かに運河を滑り出した、船頭は年配の男で灰色の帽子をかぶり、髭を蓄えた顔に穏やかな笑みを浮かべていた、木製の櫂が水面を優しく叩き、波紋が月光を映して銀色の糸を紡ぐ・・・
鈴子が空を見上げると、大阪では見れない満天の星が散りばめられていた、ポッカリと浮かぶ三日月が運河の水を鏡のように照らしている・・・・なんてウィーンの夜はロマンティックで美しいのだろう
船頭が甲高い声で「サンタルチア」を歌い始めた、彼はイタリア出身で、故郷を想って歌うその声は、運河の水面を優しく撫でるように響いてビブラートを聞かせて運河の壁に反響させてた
そしてメロディが頂点に達した時、定正がジャケットの内側から深紅の薔薇の花を一輪鈴子に差し出した、鈴子は手品師の様な定正の仕草にケラケラ笑って花を受け取った
彼女の頰が月光の下で淡い桜色に染まり、二人はいつまでも見つめ合った