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「よし、これで終わったな」
「は、はい……」
言う岩崎の様子には、疲れが見て取れた。もちろん、返事する月子も、ぐったりしている。
自転車で、挨拶に回ったのは良いが、亀屋の寅吉が引っ越し蕎麦を配っていたお陰なのか、二人と出会った町内の住人は、必ず声をかけて来た。
京さん、京さん、と、引きとめられ、その度、自転車から降りて、岩崎と月子は、挨拶した。
顔役と、両隣へ、のはずが、どれだけの人と言葉を交わした事か。
夕飯の買い出し途中なのだろう。皆、手には買い物かごを持っていて、決まって中にある、菜っ葉や芋など、ささやかな品物を手渡してくれた。
結局、顔役の家で風呂敷を貸してもらい、岩崎の上着のポケットや、月子の袖に入れていた貰い物をまとめ包んだ。
ずっしり重い包みを、月子が抱え込み、自転車の荷台から落ちないよう、岩崎のベルトに掴まって、なんとかかんとか戻って来たのだ。
「しかし、挨拶回りが、こんなに大変だったとはなぁ。私の時も、かれこれだったが、ここまでではなかった……」
自転車から降り、月子が持つには重かろうと、包みを受け取った岩崎は、呆れながら言った。
どうも、岩崎が越して来た時も、大騒ぎになったらしい。
男爵家の若様だと、暫くの間は、近所中が、つめかけてきて、表もまともに歩けなかったのだと、岩崎は、笑いながら言う。
「……男爵様、なんですよね」
月子は、ふと、呟いた。
思えば、岩崎は、家督を継ぐ立場ではないが、れっきとした男爵家の人間で、どうして、自分が釣り合うのかと、どこか、恐ろしさにも似た、冷たい空気が月子の心にまとわりついた。
こわばった月子の顔を見てか、岩崎は、
「君だって、天下の西条材木店のお嬢さんだろ?」
優しく微笑みながら、月子を諭す。
「十分、釣り合いは取れている 。でなければ、そもそも、見合いなど成立しないだろう?」
そう言われても、やはり、どこか、納得できない月子だった。
西条家の名前を聞いたとたん、皆は、確かに、たいしたもんだと驚いた。しかし、どんなに裕福な家でも、西条家は平民で華族ではない。そして、月子は、連れ子。西条家とは、血の繋がりがないのだ。
そんな、月子の戸惑いも、岩崎は見越しているようで、少し、黙りこみ、
「じゃあ、やめるか?」
と、月子を伺う。
「え?」
「え?じゃないぞ?そうなると、やっぱり、やめましたと、また、挨拶回りをしなければならんが?」
それは、大変と、岩崎は肩をすくめる。
「あ、あの……」
「からかった、だけだ」
岩崎は、言って、ポンと月子の頭に手をやった。
「いいかい?君は、考えすぎだ。それと、もっと、自信を持ちなさい。そして、あとは……」
そこまで言うと、岩崎は、落ちつきなく、玄関へ向かった。
月子も、家の門前で立ち話をしている不自然さに、はっとして、岩崎の後を追ったが、話の続きが、気になり、
「あ、あの、あとは……あとは……」
問いただしてみるが、岩崎は、依然として黙っている。
「あの……」
機嫌を損ねたのだろうかと、月子は、不安になり、再度尋ねた。
「……つまり、あとは、だな。その……あとは、私と、一緒にいれば、いいだけだ」
ガラガラと玄関のガラス戸を開けながら、消え入りそうな声で岩崎が言う。
かろうじて、聞き取れたその言葉に、月子の頬は染まった。
と、そんな甘い空気を突き破るような、中村の大声が居間から流れて来る。
「なんだ!こっちは、疲れているのに!というよりも、なぜ、中村が、いる!なぜ、いつまでも、あいつがいるんだっ?!」
岩崎は、苛立ちながら靴を脱ぎ、框に上がると、ドタドタ廊下を歩んで行った。