コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「兄様!兄様!しっかりして!」
妹、紗奈《さな》の悲痛な叫びも、兄の常春《つねはる》には、届いていない。
ただ、ただ、友の名を呼びながら、泣き叫んでいるだけだった。
「紗奈、お退きなさい!」
橘が、酷しい顔つきで、立ち上がる。
「長良《ながら》!!」
言うと同時に、橘は、常春の衣紋を掴み取り、崩れ混んでいる常春を投げ飛ばした。
「ぎゃ!髭モジャ様!橘様が!常春様の首根っこを掴んで!!!」
タマが、悲鳴をあげた。
「まあ、常春殿には、酷じゃが、今は、しっかり、してもらわねば……。まっ、荒療治じゃな」
「上野様も、腰抜かしてますけど?」
「おお、女房殿は、かか様じゃからのぉ。鍾馗《しょうき》が、悪さしたら、いつも、ああなのじゃ。それに、鍾馗だけではないぞ、ワシじゃって」
「えっ?あの、鍾馗様を投げ飛ばすのですか??そ、それに、髭モジャ様まで?!」
「おなごは、かか様になると、変わるのじゃ」
「なるほどー、深い話です。タマには、深すぎます」
「そこっ!!何を、無駄話しておるのですっ!!」
いきなり飛んできた橘の、激に、一人と一匹は、はいっ!!と、返事をすると、姿勢を正した。
常春は、橘に、かれこれ渇を入れられたようで、袖で、目をこすっては居るが、なんとか、正気に戻っている。そして、隣には、紗奈が、寄り添っていたが、晴康《はるやす》が、横たわっていた場所を、凝視していた。
「紗奈、思い出した?」
紗奈は、驚き顔で、橘へ向かって頷いた。
「……これが、本当の晴康様なの」
床には、一体の人形があった。
「長良、いえ、常春様、晴康様は、ちゃんと、ここに、いますよ。だから、しっかりなさいな」
「……橘様は、すべて御存じだったのですか?」
涙声で、常春は、橘に尋ねた。
「ええ。色々とあって、口止めされていた。そして、うちの人と、晴康様の様子を、伺いに行っていたの」
吉野にある、染め殿に、赴いたついでに、預けられていた、晴康、いや、現れている人形の具合いを伺いに行っていたという。
「……で、でも、こ、これ!!」
「ええ、そうよ、紗奈。守恵子様が、幼い時、手放さなかった、ままごと遊びの人形よ」
「ちっち、だわ!これ!ねっ、兄様、覚えているでしょ?」
取り乱す、妹に、常春は、声をかけたかったが、今の自分では、何を言い出すかと、少し、恐ろしくもあり、一言、うん、と、答えるのが精一杯だった。
橘は、おそらく、晴康の出生の秘密をも、知っているのだろう。そして、人として、産まれたであろう晴康が、なぜ、人形なのか、その、理由も、知っている。
だが──。
妹は、紗奈は、事情を知らない。果たして、すべて語ってしまった方が良いのか、いや、知らない方が、守恵子《もりえこ》の側付きとして、仕えている以上、何かと都合が良いかもしれない。
知ってしまえば、今までの様に、守近含め、自然に接することは、できなくなるだろう。
常春なりに、混乱しつつも、妹の事を考えている時、その、紗奈が、声を挙げた。
「いったあー!!!」
紗奈の頭上に、バサバサと、何かが、降り落ちて来たのだ。
「な、なに、この、書き付け、それと、え?兄様!タマに、かじられた、書物がっ!!」
床には、晴康の事が、書き留められている、あの、書き付けと、常春が大学寮で借りて来た、タマに傷められた、書物が、真っ新の状態になって、散らばっていた。
「……晴康」
呟く常春に橘は、
「ねっ、晴康様は、あなたの側にいる。そして、常春様の事をちゃんと、考えているのよ」
と、床に散らばる書き付けやら、書物やらを手に取りながら、微笑みかけてきた。