テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第1話 お迎え
古本屋の午後は、だいたい静かだ。
静かというより、なんかゆるい。
時間が少しだけ伸びてる感じがする。
店の奥では店主が新聞を読んでいて、
棚の隙間から差し込む午後の光がゆっくり床を移動している。
俺はレジ横の丸椅子に座って、値札を貼り替えていた。
文庫本を一冊ずつ拭いて、新しい値札を貼る。
単純な作業だけど、こういうの嫌いじゃない。
この店の本はだいたい古い。
角が丸くなっていたり、紙が少し黄ばんでいたりする。
新品とか、綺麗な本はあまりない。
誰かが読んで、誰かが手放して、
また誰かが読む。
古本屋ってそういうものらしい。
ぱら、と一冊めくってみる。
中からレシートが落ちた。
「あ」
拾って日付を見る。
十二年前。
…てことは、俺がまだ小学生の頃だ。
そんな前の本が、まだこうしてここにあるんだと思うと。
別に感動とかじゃないけど、
ちょっと不思議だ。
「凪」
店主の声が飛んできた。
「それ終わったらこの箱も頼むわ」
「はーい」
カウンターの下の段ボールを引き寄せる。
古い文庫がぎっしり詰まっていた。
この古本屋は、俺の実家から歩いて十分くらいの場所にある。
高校の頃からバイトしていて、
卒業してからもなんとなく続けている。
他にやりたいことは、特になくて。
母親には「早く自立しなさい」と言われるけど、でもまあ、今のところは大丈夫だと思う。
たぶん。
箱から一冊取り出したところで、
「何ぼーっとしてんだ」
背後から声がした。
振り向かなくても誰かわかる。
「久遠」
いつの間にか入口のベルが鳴っていたらしい。
全然気づかなかった。
久遠は棚の間を抜けてカウンターの前まで来る。
背が高いから、棚の上の方を避けるみたいに少し屈んで。
「終わった?」
「まだ」
「仕事遅」
「本多いんだもん」
箱を軽く叩く。
「凪、今日も晩飯食ってないだろ」
「まだ夕方だけど」
「昼は」
「パン」
「それだけ?」
「……それだけ」
久遠は小さくため息をついた。
「だから迎えに来た」
「まだバイト中」
俺が言うと、店主が新聞の向こうから言った。
「もういいぞー」
「え?」
「この感じじゃ、客も来ねえだろうし」
「いやいや」
「久遠君も、迎え来てるしな」
なんだその理由。
俺が困った顔をすると、店主が笑った。
「凪、お前ほんと世話焼きの幼なじみ持ってよかったな」
「別に世話焼いてないです」
久遠が即答。
「大学院生がわざわざ迎え来るのは世話焼きって言うんだよ」
店主がそう言うと、久遠は少しだけ眉をしかめた。
「たまたま通っただけです」
短いやり取り。
でも店主は満足そうに笑っていた。
「まあいいや。凪、帰れ」
「えー」
「たまには自分ち帰って、母ちゃんに顔見せろよー。」
「一昨日見たし」
「それでも」
箱の蓋を閉めて、カウンターの横に寄せる。
「じゃ、お疲れさまでしたー」
「おう」
外に出ると、夕方の空気だった。
昼より少しだけ涼しい。
商店街を抜けて住宅街に入る。
見慣れた道だ。
この辺は昔からあまり変わらない。
新しいコンビニができたくらいで、あとはほとんど同じ景色。
「心理学の研究、忙しいんじゃないの」
歩きながら聞く。
「まあ」
「院ってそんな暇なの?」
「暇じゃない」
「じゃなんで来た」
久遠は少しだけ考えてから話を遮った。
「…今日も俺ん家帰るよな?」
「ちょ、話逸らすなー」
俺が笑うと、久遠は肩をすくめた。
しばらく歩く。
住宅街の角を曲がる。
「で、帰るよな?」
「うん。母さん今日も夜勤だし」
「おけ」
この流れも、わりといつものやつだ。
住宅街の角をもう一つ曲がる。
小さなアパートが見えてきた。
久遠の家。
俺ん家とか古本屋から歩いて
ちょうど 五分くらいの場所。
「相変わらず近すぎ」
「たまたま」
それが久遠の答えだった。
玄関の鍵を開けて中に入る。
「お邪魔します」
靴を脱いで上がると、 リビングの窓の横に置かれた水槽が目に入った。
金魚。
二匹いたはずだけど。
一匹が、水面に浮いていた。
「……あれ」
水槽に近づく。
腹を上にしている。
もう一匹は底の方をゆっくり泳いでいた。
浮いている方は、ほとんど動かない。
口だけ、かすかにぱくぱくしている。
死にそうな魚を見るのって、なんか変な感じ。
その瞬間。
頭の奥で、ふっと空気が変わった気がした。
一瞬だけ。 本当に、一瞬だけ。
水の中にいるみたいに。
呼吸が少し浅くなる。
でも、すぐ消えた。
「凪?」
久遠がキッチンから顔を出す。
「どうした」
「…金魚」
「ああ」
久遠は水槽を覗き込んだ。
「朝から弱ってたんだよね」
「死ぬ?」
「うん。たぶん」
そう言ってコンロの火を止める。
カレーの匂いが広がる。
「飯できてるから」
「カレーじゃん。最高」
自分の皿を出そうとして、
ふともう一度水槽を見てみる。
さっきまで浮いていた金魚が、ほんの少し動いていた。 沈みそうになって、また水面に戻る。
「凪」
久遠が呼ぶ。
「冷める」
「あ、うん」
俺は水槽から目を離した。
席についてからも、なんとなく気になってしまってもう一度見る。
金魚は静かに浮いていた。
死んだんだ。
まあ、いいか。
「いただきます」
カレーを口に入れる。
ちょうどいい辛さで体が温まる。
そのとき。
テーブルの上で、久遠のスマホが震えた。
画面が一瞬だけ光る。
通知の名前は、見えなかった。
でも。
久遠は、それをすぐに裏返した。