テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#オリジナル
SUJ 一等海尉
85
45
ふぃる汰
1,570
第3話 クレパス
午後八時十三分。
棚の上に置いていたペットボトルが、かすかに鳴った。
カタ。
レイジはパソコンから顔を上げた。
カタ、カタ。
机の脚にも小さな振動が伝わってくる。
「お」
椅子に座ったまま、少し待つ。
揺れは強くない。
吊り下げてある照明が、ゆっくり左右へ動いた。
スマートフォンが鳴る。
地震情報だった。
レイジは通知を開き、表示された情報を眺めた。
震源。
規模。
深さ。
揺れの続いた時間。
そして、揺れ方。
笑いかけていた口元が止まった。
「これ……」
パソコンへ向き直る。
ブラウザの履歴を開いた。
数日前に購入したページ。
幻場.com。
クレパス。
価格、千二百円。
在庫、百二十。
購入すると、一般的な地震情報とは少し違う条件が表示された。
大きな地震である必要はない。
揺れの長さ。
最初の小さな振動。
途中で一度弱まること。
そして、完全に収まってから一定時間以内。
条件が揃った場合だけ、地表のどこかに裂け目が現れる。
それを幻場.comでは、
クレパス
と呼んでいた。
レイジは地震情報と購入した条件を並べた。
一つ目。
一致。
二つ目。
一致。
三つ目。
一致。
最後。
一致。
「来たじゃん」
椅子を引く。
そのままナオへ電話した。
数回の呼び出し音。
「もしもし」
「地震分かった?」
「分かった。そっち大丈夫?」
「全然。物も落ちてない」
「ならよかった」
「それより条件」
数秒の沈黙。
「まさか」
「全部合ってる」
「行くの?」
「行く」
「今?」
「今じゃないと消えるらしい」
電話の向こうでため息が聞こえた。
「場所は?」
「買った情報だと候補が三つある。近いところから見る」
「余震には気をつけて」
「了解」
「危ないと思ったら入らないでよ」
レイジは鞄へ機材を入れながら笑った。
「入るとは言ってない」
「その言い方する人は入る」
「見るだけかもしれない」
「絶対入るじゃん」
「じゃ、配信側よろしく」
「レイジ」
「ん?」
「地震の直後なんだから、本当に無理しないで」
一瞬だけ手が止まった。
「分かってる」
電話を切る。
カメラ。
小型ライト。
モバイルバッテリー。
水。
簡単な救急用品。
スマートフォン。
いつもの探索装備を確認する。
最後にドアを閉めた。
午後八時四十六分。
ライブ配信開始。
視聴者数、百八十七人。
レイジは歩きながらカメラへ顔を向けた。
「こんばんは。急に始まりました」
コメントが流れる。
『地震大丈夫だった?』
『何かあった?』
『今日早くない?』
「今日はですね、前に言ってたやつです」
視聴者数が二百を超える。
「地震のあとに出るっていう、例の裂け目。条件が全部揃いました」
『クレパス?』
『マジで行くの』
『余震あるかもしれんぞ』
『やらせなし?』
レイジは最後のコメントを見つけた。
「やらせなしです。というか、何もなかったら普通に何もありませんでしたって帰ります」
住宅街を抜ける。
候補地点の一つ目。
小さな駐車場。
何もない。
「はい、一個目なし」
地面を映す。
普通の舗装。
ひび割れすらほとんどない。
『終了』
『早い』
『あと二つあるだろ』
「あります」
二つ目。
河川敷に近い空き地。
ここも何もない。
レイジはライトを向けながら一周した。
「ないですね」
『千二百円返してもらえ』
『幻場また外れ?』
『三つ目期待』
「まだありますから」
レイジは笑った。
だが三つ目へ向かう途中から、コメントを確認する回数が増えていた。
条件が一致した。
それだけで本当に何かが出るとは思っていなかった。
動画になればいい。
何もなければ、それはそれで一本になる。
そう考えていた。
三つ目の候補地点は、住宅地から少し離れた造成途中の土地だった。
柵に沿って歩く。
地震で崩れた場所がないか慎重に確認する。
そして。
レイジが止まった。
「……あった」
コメントが急に増える。
『何?』
『見せて』
『どこ?』
レイジはカメラを前へ向けた。
地面が裂けている。
長さは十メートルほど。
人が一人通れる程度の幅。
地震でできた亀裂と言われれば、そう見える。
しかし。
裂け目の奥が暗い。
ただ地面が割れただけではない。
下へ続いている。
「これ、深いな」
レイジは近づいた。
ライトを向ける。
土。
岩。
その先。
奥へ傾斜している。
穴というより、通路だった。
『入るな』
『普通に危険』
『これ本物?』
『やらせに見えん』
『行政に連絡した方がいい』
レイジはしゃがんだ。
入口付近をライトで照らす。
崩れたばかりの地面なら、もっと土が散っていてもよさそうだった。
しかし内部は妙に整っている。
壁は岩に似ている。
触る。
少し湿っていた。
「これさ」
指を見せる。
土がほとんど付いていない。
「地震で今できた感じじゃないんですよね」
『だから入るなって』
『それクレパスじゃね?』
視聴者数、六百四十三人。
増えている。
レイジは立ち上がった。
「ちょっとだけ見ます」
『出た』
『ちょっとだけ=奥まで』
『ナオ止めて』
ナオからメッセージ。
『本当に入口だけにして』
レイジは笑った。
「ナオから怒られました」
ライトを構える。
一歩。
裂け目の中へ入る。
二歩。
三歩。
外の音が急に遠くなった。
レイジは振り返った。
入口は見える。
「大丈夫。まだ外見えてます」
さらに進む。
通路は緩やかに下っている。
壁には地層らしい線がない。
岩のようでいて、岩ではないようにも見えた。
ライトを動かす。
表面がわずかにへこんだ。
「今、動いた?」
『何が?』
『壁?』
『分からん』
レイジは近づいた。
触れる。
硬い。
「気のせいか」
歩き出す。
コツ。
コツ。
靴音。
コツ。
コツ。
少し遅れて反響する。
「音響すごいですね」
『洞窟みたい』
『帰れ』
『通信生きてるのすごいな』
視聴者数、九百八十。
レイジは笑った。
「千人行きそう」
また歩く。
通路が二つに分かれた。
「はい、分岐」
左右を照らす。
どちらも似ている。
「どっち?」
コメントが流れる。
『右』
『左』
『戻れ』
『右』
『右』
「右多いな」
右へ進む。
十メートル。
二十メートル。
途中で壁に小さな突起を見つけた。
レイジは触らず、カメラへ映した。
「これ覚えといてください」
先へ。
また分岐。
今度は左。
しばらく歩く。
そして。
レイジが止まった。
壁に突起。
さっきと同じ。
「……戻った?」
『同じやつ?』
『似てるだけじゃない?』
『マーク付けろ』
レイジは鞄からテープを取り出した。
壁に短く貼る。
「これで分かります」
進む。
分岐。
右。
さらに進む。
壁。
テープ。
レイジは黙った。
『戻ってる』
『一本道じゃなかったぞ』
『方向感覚狂ってるだけ』
「いや」
レイジは後ろを見る。
「俺、同じ道戻ってないよ」
笑った。
いつもの笑い方だった。
少しだけ声が乾いていた。
「まあ、こういうのが欲しかったんですけどね」
再び歩く。
コツ。
コツ。
コツ。
レイジが止まった。
足音も止まる。
そのあと。
コツ。
小さな音。
レイジは振り返った。
誰もいない。
「今聞こえた?」
コメントが流れる。
『何?』
『足音』
『一個多かった』
『反響だろ』
「ですよね」
歩く。
コツ。
コツ。
コツ。
コツ。
止まる。
コツ。
コツ。
二つ。
レイジの口元から笑いが消えた。
後ろを照らす。
何もない。
壁。
床。
暗い通路。
「反響、二回?」
声を出す。
「おーい」
少し遅れて、
おーい。
さらに遅れて。
音になりきらない何かが返る。
レイジはライトを下げた。
「帰ります」
コメントの速度が上がった。
『それがいい』
『やっと』
『出口分かる?』
レイジは来た道を戻る。
分岐。
テープ。
また分岐。
テープ。
「……これ」
同じ印が何度も出てくる。
自分が貼ったものなのか。
別のものなのか。
剥がす。
次の角。
またある。
「帰ります」
レイジはもう一度言った。
歩く。
「一回入口まで戻ります」
呼吸が少し速い。
はっ。
はっ。
その間に。
もう一つ。
はっ。
レイジが止まった。
自分の呼吸。
はっ。
少し遅れて。
はっ。
「これ俺?」
カメラを胸元へ向ける。
自分は息を止める。
無音。
一秒。
二秒。
はっ。
音がした。
レイジはゆっくり顔を上げた。
ライトを前へ。
誰もいない。
「……帰ります」
三回目だった。
コメントを見る。
画面が少し乱れている。
『レイジ?』
『音ズレてる』
『映像止まった?』
『こっちは普通』
『今同じところ二回映った』
ナオから着信。
レイジは出る。
「もしもし」
雑音。
「ナオ?」
声が遠い。
「レイジ……今……どこ……」
「中。戻ってる」
「配信……おかしい……」
「何が?」
「今……入口……」
途切れる。
「もしもし?」
通話終了。
レイジはスマートフォンを見た。
圏外ではない。
アンテナも立っている。
ライブ配信も続いている。
視聴者数。
千三百二十二。
「通信悪いみたいですね」
いつものように言おうとした。
声が小さくなった。
唇が痛い。
指で触れる。
少し裂けている。
喉は渇いていない。
なのに唇だけが乾いていた。
水を飲む。
まだ半分以上残っている。
「帰ります」
四回目。
歩く。
時間を見る。
午後九時十二分。
レイジは眉を寄せた。
入ってから、それほど経っていない。
感覚では一時間近く歩いている。
逆かもしれない。
もっと短いのかもしれない。
分からない。
コツ。
コツ。
コツ。
後ろ。
コツ。
前。
コツ。
横。
コツ。
足音がどこから返っているのか分からない。
ライトを動かす。
壁の端。
何かが引っ込んだ。
「今の何?」
追う。
何もない。
「見えた人いる?」
コメント。
『何も』
『右端』
『いた』
『画面乱れてる』
『戻れ』
「戻ってる」
レイジは答えた。
少し間を置いて、
「ずっと戻ってるんだけどな」
歩く。
もう軽口は出なかった。
壁に手をつく。
硬い。
少しだけ脈打ったような気がした。
すぐ離す。
「帰ります」
五回目。
なぜ同じことを何度も言っているのか、自分でも分からなくなっていた。
帰りたい。
そのはずだった。
でも。
何のために帰るんだっけ。
部屋。
ナオ。
動画。
明日の予定。
全部思い出せる。
なのに、それが自分を外へ引っ張る理由にならない。
「変だな」
レイジは立ち止まった。
「帰りたいんだけど」
息を吸う。
少し遅れて別の呼吸音。
「帰る理由が……」
そこで言葉を止めた。
何を言おうとしたのか忘れた。
コメントが流れている。
『もう動くな』
『助け呼んだ方がいい』
『位置情報送って』
『レイジ聞こえる?』
レイジはコメントを読んだ。
「大丈夫」
しばらくして、
「帰ります」
六回目。
そのころ。
ナオは自宅のパソコンの前で、何度もレイジへ電話をかけていた。
繋がらない。
配信は続いている。
しかし妙だった。
レイジが歩いている。
壁を照らす。
分岐を曲がる。
その三十秒後。
同じ動き。
壁を照らす。
分岐を曲がる。
コメント欄でも気付き始めた人がいる。
『ループしてない?』
『これさっき見た』
『配信巻き戻ってる?』
ナオは時間を確認した。
ライブ表示。
現在配信中。
それなのに。
レイジの映像の端に映ったスマートフォン。
表示時刻。
午後九時十二分。
今は、
午後九時三十七分。
「レイジ……」
配信は現在ではなかった。
裂け目の中。
レイジは歩いていた。
何分経ったのか分からない。
そして。
前方が明るい。
足が止まる。
「出口?」
光。
遠い。
でも確かに見える。
風もある。
頬に触れた。
外の空気。
レイジの顔が少し緩んだ。
「見つけた」
コメントを見る。
反応がない。
数秒後。
一斉に流れる。
『何を?』
『映像暗い』
『レイジ?』
『光なんてない』
レイジは画面を見つめた。
「見えない?」
カメラを前へ向ける。
自分には見える。
出口。
外。
風。
「あるじゃん」
歩く。
一歩。
二歩。
近づく。
光が大きくなる。
「帰れます」
七回目。
声に少し笑いが戻った。
「いや、普通に帰れますね」
三歩。
四歩。
急に足が止まった。
「……あれ」
動かない。
右足を出そうとする。
出ない。
「ちょっと待って」
体が重いわけではない。
痛みもない。
ただ、動かし方が分からない。
足を前へ出す。
その命令だけが体へ届かない。
「なんだこれ」
腕は動く。
カメラを持ち直す。
呼吸。
はっ。
遅れて、
はっ。
さらに。
はっ。
三つ。
「やば」
レイジは初めて短くそう言った。
出口は目の前。
数メートル。
風が来る。
外の匂いがする。
「帰ります」
八回目。
一歩も動けない。
「帰るから」
九回目。
呼吸が浅くなる。
「ちょっと」
カメラが揺れる。
壁。
床。
光。
また壁。
レイジが座り込む。
「ナオ」
返事はない。
「見えてる?」
コメントは流れている。
でも内容が合わない。
『まだ歩いてる』
『さっきから同じ』
『止まった?』
『レイジどこ?』
彼が今見ているコメントも、現在のものなのか分からなかった。
レイジはカメラを床へ置いた。
画面が斜めになる。
半分に壁。
半分に通路。
その奥に光。
「帰ります」
十回目。
ほとんど声にならなかった。
呼吸。
一つ。
遅れてもう一つ。
さらに奥から一つ。
どれが自分のものなのか。
もう分からない。
レイジは光を見た。
風が頬を撫でる。
あと少し。
手を伸ばす。
届かない。
指先が止まる。
カメラの端に、レイジの肩だけが映っている。
動かない。
一分。
二分。
コメント欄が加速する。
『レイジ?』
『動いてない』
『誰か連絡して』
『これ録画?』
『音だけする』
画面の中。
レイジは動かない。
それでも配信は続く。
三分。
壁。
床。
出口らしき光。
そして。
画面の奥。
光とは反対側。
暗い通路の端を、
何かがゆっくり横切った。
人ほどの高さ。
輪郭だけ。
歩いているのかどうか分からない。
画面から消える。
数秒後。
コツ。
足音。
もう一つ。
コツ。
レイジは動かない。
さらに一歩。
コツ。
カメラへ近づいている。
コメント欄。
『今なんかいた』
『誰?』
『レイジじゃない』
『後ろ』
『今の音、なに?』
そこで映像が止まった。
翌朝。
レイジが入ったとされる場所には、裂け目がなかった。
地面には地震による細かなひびが残っている。
だが、人が入れるほどのものではない。
警察や消防が周辺を確認した。
レイジの姿は見つからなかった。
機材もない。
入口もない。
ナオは保存された配信を何度も見直した。
動画の長さ。
五十八分十二秒。
実際にライブ配信が続いていた時間。
一時間二十六分。
一致しない。
途中には同じ映像が何度も入っている。
順番も違う。
レイジが入口へ入った直後の映像が、三十分後にもう一度流れる。
本人が言ったはずの言葉が、本人の口より先に聞こえる部分もある。
最後の数分。
レイジは動いていない。
なのに。
音だけが増えていく。
ナオはそこで再生を止めた。
ブラウザを開く。
レイジから送られていたURL。
幻場.com。
商品ページ。
クレパス。
価格、千二百円。
在庫。
百十九。
昨日は百二十だった。
ナオは画面を下へ動かした。
注意。
配信行為は推奨されません。
出口の保証はありません。
帰還後、記憶の差異が発生する場合があります。
その下。
補足。
侵入の記録は残らない可能性があります。
ナオはマウスから手を離した。
さらに下。
昨日はなかった項目が増えている。
遭遇報告。
一件。
日付は昨夜。
詳細を開く。
文章はない。
動画もない。
表示されているのは、
五十八分十二秒
という数字だけだった。
ナオはしばらく画面を見ていた。
更新する。
遭遇報告は消えた。
もう一度更新する。
戻らない。
商品ページそのものは残っている。
クレパス。
価格、千二百円。
在庫、百十九。
その瞬間。
在庫表示が変わった。
百十八。
ナオは動かなかった。
誰かが今、
同じ情報を買った。
ページの下に、小さな表示が現れる。
次回発生条件。
未成立。
その文字は数秒後に消えた。
遠く離れた町。
一人の若者がスマートフォンを見ていた。
購入完了。
画面には三つの候補地点。
発生条件。
注意事項。
そして、
クレパス内部での撮影について。
若者は昨夜のレイジの配信を別の画面で再生していた。
最後のコメント欄には、同じ文章が残っている。
『今の音、なに?』
若者は少し迷ってから、
商品ページをお気に入りへ登録した。
その夜。
誰もいない造成地。
レイジが消えた場所には、普通の地面が続いていた。
風が通る。
草が揺れる。
何もない。
裂け目もない。
足跡もない。
ただ地面の下のどこかで、
コツ。
一度。
少し間を置いて、
コツ。
さらに遠くから、
コツ。
三つの足音が、
別々の速さで響いていた。
コメント
1件
みぅだよ🥀 第3話「クレパス」読んだ……。 地震の後に現れる裂け目、「千二百円」っていう妙に具体的な価格の違和感からもう既に不気味だった。「帰ります」ってレイジが繰り返すたびに声のトーン変わっていくの、ちゃんと書かれてて怖かった……あの「出口見えるのに動けない」とこ、めっちゃ息苦しかった。最後の三人分の足音の残し方、好き。説明しすぎない終わり方がすごく効いてた。「千二百円」で買える闇の入口、って感じがして震えたよ。また読みたい🌙