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後一条天皇の中宮に、時の摂政、藤原道長が 娘、威子が、決まったその年のこと。平安京では、奇っ怪な話が流れていた。
都の表玄関として建てられた、羅城門の楼閣から、毎夜、琵琶が鬼によって吊るされる──。
これはきっと、太皇太后、皇太后、そして中宮と、一家三后を実現した、道長の驕りを戒めているに違いないと、浮評は広まるばかりだった。
その、朱雀大路の最南端に鎮座する、平安京の内と外を分かつ門──羅城門は、雨ざらしとなり、その体を成していない。
荒れ放題の楼閣には、身寄りのない死体が積み重なり、盗賊の溜まり場になっている。
しかし、この門の本来の役目、都の内と外、すなわち、この世と異界との境界線を示しているという事を、人々は忘れておらぬのか、時世への不満も重なっているのか、皆は、この琵琶の噂話を心底不気味がっていた。
「……単に、その琵琶が要らなくなったからだろう」
宗孝は、自らの腕の中で、噂話に怯える女、余理に言う。
交わりの後の、まどろみからか、余理は多少大胆になり、細長い白魚を思わせるような美しい指で、宗孝の鼻を摘まんだ。
「どうして、あなた様は、いつも、そう冷淡なのでしょう」
自分の話に真面目に取り合わないと、余理は苛立っているのか、すねているのか。
二人を包む夜具に差し掛かる、高台の明かりが、そんな、少しばかり不機嫌な女の顔を仄かに浮き上がらせた。
切れ長の瞳に、鼻筋の通った、少し面長の顔は、一介の遊女にしては、もったいないほど、整っている。
宗孝は、つと、目の前に迫る、余理の手入れが行き届いた、艶やかな髪を、もて遊んだ。
指先にくるりと絡め、その触感を楽しむが、力を入れすぎたのか、余理は、あっと、小さく叫ぶ。
「おお、すまぬ。先程の仕返しよ」
お前が、鼻を摘まんだろうと、言う宗孝に、余理は、いっそう拗ねて見せた。
「それにしても、この様な事など、昔はなかったのに。人の世との結界を守る羅城門が、あのように、荒れ果ててしまっては……」
言うと、余理は戸惑いから逃れようとばかりに、宗孝の胸に頬を寄せた。
「それに、かの摂政様の世になって、都では、奇っ怪な事が相次いでばかり。皆、夜出歩くのが、恐ろしいと……」
「うーん、それは、それは。お前の商売も上がったりだなぁ」
「……商売だなんて。私は、ずっと 宗孝様一筋なのに。お忘れですか?あなた様と私の出会いを……」
出会いも何も、と、くすりと笑っい、宗孝は余理を抱き締めてやる。
遊び女として商うごとで、庵にひっそり暮らす余理という女は、人ではない。
いつまでも歳を取らず、若さを保つ姿を怪訝に思われてはと、苦肉の策か、遊女と称して、人の世に生きている、あやかし、なのだ。
その余理が、鬼の仕業などと、同類を恐れているのだから、なんとも、奇妙な話よと、宗孝はおかしくもあるが、本人にとっては、そうゆう問題ではなさそうだった。
(さても……。これの言うように……。)
宗孝は、ふと思う。
余理と出会ったのは、いつのことだったのだろう。つい、最近のような、いや、遥か昔のような……。
なぜか、宗孝は、余理との出会いを、はっきりと、思い出す事ができなかった。思い出そうとするたび、記憶に霞がかったようになり、とても大切な何かを、忘れているような、妙な気分に陥ってしまう。
(そうだ……あれは。)
季節外れの、笹百合が一輪、咲いていた。それは、宗孝の屋敷の庭であったのか、はたまた、野遊びに、仲間と出かけた時であったのか。宗孝が、覚えているのは、つい、その美しさに引かれて、手追ってしまったということだけだった。
そして、笹百合は、女人の姿、余理へと変容し、宗孝へ恋心を告げた。
宗孝が、笹百合を手折った瞬間、二人は、本来引かれているはずの、人とあやかしの境界を越えた。
宗孝は、美しいと思い、余理は、凛々しいと思った。それだけのことだった。
以来、本能というべき、気持ちに逆らえず、異種でありながらも、二人は、共に夜の一時を過ごしている。
どこか戯れのような、反面、心の底から呼び起こされる不思議な力に導かれて──。