「ゆ、憂鬱すぎる……」
朝の青空がやけに恨めしい。
理由は分かってる。今日から葵の家で勉強を教えることになっているから。それを考えるたびに、心の体温が三度ずつ下がっていく。
「脈がないって、知っちゃったからなあ」
恋をした相手に脈がないと分かっているのに、二人きりでいなければならないなんて、地獄以外の何物でもないよ。
「はあ……こうなったら転校しよ。もうそれしかないでしょ。いや、無理だのは重々承知してるんだけどね」
季節としては夏の入り口にいるというのに、僕の梅雨は明ける気配もない。早く、僕の『梅雨明け宣言』を聞きたい。でも、一生ないんだろうなあ、そんなこと。性格は暗いし、ジメジメしてるし、打たれ弱いし。
そんなことを考えながら、僕は教室前に到着。がらがらと後ろ扉を開いた。
「あ! 悠くん! おっはよー!!」
(ぐっ……つ、辛い)
僕とは真逆に、朝からハイテンションの葵が声をかけてきた。やめてくれ! これ以上、僕に精神的ダメージを受けさせないで! 本当に泣く! 泣きながら転校する! それで、転校先でも泣く!
……それじゃあ転校した意味なくない?
「ん? どうしたの憂くん? 朝から元気ないみたいだけど。あ、でもそれが憂くんにとっては通常運転か。あははっ!」
純粋で屈託のない陽気な笑顔だから余計に傷付く。ただでさえ、葵は太陽みたいな存在なんだから。
――なんだろう?
「あれ? どうしたの憂くん?」
「あ、いや、ちょっとね」
どうも、やけに周りから視線を感じるんだけど……。僕は生まれてからのこの十七年間、注目されたことなんて皆無と言っていいから、過剰な程に感じるんだ。
で、その視線を向けてきていた相手が分かった。やっぱり一人じゃなくて複数人からの視線だった。
嫌な予感が……。
「ねえねえ葵ちゃーん! 良かったねえ。今日も白馬に乗った王子様が来てくれたみたいだよ?」
「……は?」
いつも葵と一緒にいるグループの一人――確か名前は竹田さん――が、そんなことを言っている。ニヤニヤしながら。僕が王子様? はて?
「あ、憂くん。気にしないでね。皆んなが勝手に言ってるだけだから。それに、憂くんが王子様なわけがないしねえ。あははっ!」
ま、また傷付くようなことを。
「それにさ、仮に憂くんが白馬に乗ってきたとするよ? でもそれって、馬は速いからスピード違反になると思うの」
「はあ。じゃあ、僕は何に乗ってくるの? 教えてよ」
「何にって? うーん。たぶんカピバラ! すっごい似合ってると思うの!」
「か、カピ、バラ……」
すっごく馬鹿にされた気がする……。カピバラが似合う男子なんて聞いたことがないよ。
大体さ、仮に僕がカピバラに乗って登校してきたとするよ? でも、それはそれで道交法違反になると思うんだよね。それ以前に、カピバラって人間を乗せて走ったりできるのかな? そんなの考えるだけ無駄だけど。
「ま、まあいいや。ねえ竹田さん? 僕が王子様ってどういうこと?」
「だってー。陰地くんって、これから毎日、葵の家に行って勉強教えてあげるんでしょ? 若い男女が密室の中で二人きりになるなんて、何にもないはずはないよねー」
「……はい?」
「あー、いいなあー。きっと、あんなことやこんなことをお勉強するんだろうなあ。フフッ……フフフッ。ヤバっ、鼻血出そう」
あー、そういえば葵が言ってたっけ。竹田さんが恋バナやら恋愛関係の噂話やらが大好きだって。それをネタにして妄想の世界に入り込んじゃうって。
って、違う! 気にするところはそこじゃない!
「あ、葵? も、もしかしてだけど、今日から一緒に勉強することを……」
「うん! しっかりと皆んなに話しておいたよ! ほうれんそうってやつ? 報復、連絡、相談。それってすっごく大事だもんねえ」
言って、葵は汚れていない真っ白なハンカチーフのような笑顔を僕に向けながらフンッと胸を張った。いつ見ても、この笑顔は全く飽きることなく、慣れることもなく、ただただ僕の心を温めてくれる。
でもさ。『報復』って何さ。間違えてる上に怖いって。
「だから憂くん。今日から心置きなく私に勉強教えてね」
言って、葵は宝石を散りばめたような笑顔を僕に向けた。
――まあ、いいか。葵が喜んでくれてるみたいだし。それに、まず変なことになるわけもない。だから心配する必要もない。僕は脈なしだから。
悲しいけど。
でも、今はその現実を受け入れよう。
「あっ! ねえねえ竹ちゃん? さっき言ってた『あんなことやこんなことをお勉強』って、どんなことをするの?」
「ふむふむ、なるほど。葵ちゃんはそこら辺のことに疎いんだ。じゃあこの竹田先生が詳しく教えてあげる! えーっとね、まず、Aというのは、つまりはキス――」
「あーー! た、竹田さん! 葵にそうこうこと教えないであげて!」
「キッス? あー、知ってる知ってる。いいよねえ、あのバンド」
葵さんよ。たぶんそれ、違う。お前が今言ってるのは、たぶんあのハードロックバンドのことだと思うんだ。言わないけど。
とりあえず、竹田さん。お願いだから葵のことを穢さないであげてください。
* * *
「じゃあじゃあ憂くん。遠慮なく家に上がってくれたまえ」
「う、うん。お邪魔します」
放課後。僕は葵に勉強を教えるために彼女の家までやって来た。否。無理やり連れてこられた。でも、勉強を教えるだけならいいか。
葵の家は僕が住んでるマンションから徒歩三分程の距離にある一軒家。だから昔から気軽に遊びに行っていたりしてたんだけど、さすがに中学生になった頃くらいからその頻度は減っていった。
僕が葵を異性として意識し始めてしまったから。
「あれ? 今日はお母さんは? 靴がないんだけど」
玄関に入ると、いつもならある白いローファーがない。葵のお父さんは仕事があるから、僕が来る時間帯に靴はないのはいつものことだけど。
「うん。お父さんとお母さん、今日から海外に遊びに行ってるの」
「え? と、ということは……」
「そう! 今日から一ヶ月間の間は私と憂くんの二人きりってわけ! 勉強するにはもってこいのシチュエーションじゃない? これで勉強に集中できる!」
ふ、二人きり? しかも一ヶ月間も!?
ふと、竹田さんが言っていた言葉を思い出す。
『若い男女が密室の中で二人きりになるなんて、何にもないはずはないよねー』
ぐわぁ!! 思い出さなきゃよかった! さ、さすがに一ヶ月間は……。
いや、大丈夫。何もない。何もないに決まってる。理由としてはふたつ。
ひとつ目は、僕にそんな勇気はないということ。僕はヘタレだから。そしてふたつ目。朝の竹田さんに質問を投げかけていたように、葵はそこら辺の知識にてんで疎いから。だからまず、そんなことにはならない……はず。
意外なことに、葵には恋人がいたことがないんだ。これだけ可愛いにも関わらず。でも、モテないというわけじゃない。本人から訊くに、たくさんの男子から何度も告白は受けてはきているらしい。
でも、知識がないだけじゃなくて、全くと言っていい程に、葵はそういうことに興味がないみたい。だから全部断っているとかなんとか。
「どうしたの? 早く上がりなよ? あー、それともやっぱり、憂くん何か意識しちゃってたりして」
「し、してないしてない! 神に誓います!」
葵はからかうようにしてニマニマしているけど、どうしてそこまで余裕を持っていられるの……。普通の女子だったら絶対にあり得ないと思うんだけどなあ。
でも、これってつまり、僕のことを一人の男子として見てくれていないってことだよね? あー、またネガティブな気分になってきちゃったよ。
「憂くん、本当にどうしちゃったの? やっぱり意識してるでしょ? お父さんとお母さんがいないことに」
「そ、そりゃそうだよ……あ、葵は平気なの?」
「うーん、平気っていうか、なんだろう。だってさ、憂くんって、いつもすっごく優しいじゃん。安心できるんだよね。それに――」
葵は普段は見せない寂しげな表情を見せた。
「本当はね。落ち着かないんだ。誰もいない家に帰ってくるのが。静かすぎて。だから憂くんが来てくれて本当に嬉しくて。ありがとうね、憂くん」
「葵……」
葵の蕭索たる横顔を見ていると、ふと、幼稚園時代の葵ののことを思い出した。そういえば葵って、すごく泣き虫で、すごく寂しがり屋さんなんだったっけ。
――そっか。
葵、昔から変わってないんだな。
「あ! ご、ごめんね。なんでもないから気にしないでね! さ、さあ、勉強頑張ろう! あ、そうそう!」
「ん? どうしたの?」
「――今日から親、一ヶ月間帰ってこないんだ」
「どうしてラブコメ風に言い直しちゃったの……」
『第2話 二人きりのお勉強会【1】』
終わり







