テラーノベル
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深夜のオフィスでの出来事は、私の記憶に熱く焼き付いて離れない。
けれど、翌朝の涼さんの爽やかな笑顔を見ていると、私はまた臆病な自分に引き戻されてしまう。
(あんなに情熱的に抱きしめられたのに……あれも全部、私が『契約妻』として完璧に振る舞えるようにするための、彼なりのサービスなんじゃ……?)
一度芽生えた不安は、毒のように私の心を蝕んでいく。
そんなとき、お昼休みに給湯室で一息ついている私の前に、あの方が現れた。
「あら、天音さん。昨夜は随分と遅くまで涼様とお仕事をされていたようですわね」
神条エリカ様。
彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私のすぐ隣に立った。
「……専務のお手伝いをしておりました」
「健気ですわね。でも、可哀想に。あなた、涼様がなぜ数ある社員の中から、あなたを選んだのか、本当の理由をご存知ないのかしら?」
心臓がドクンと嫌な音を立てる。
私は、手に持っていたマグカップを強く握りしめた。
「彼はね、何よりも『一ノ瀬の看板』を汚さないことを優先される方なの。私との結婚を避けるために、一番『害がなくて、後腐れなく捨てられそうな、地味なあなた』を盾に選んだだけ。計算し尽くされたパフォーマンスですのよ」
「…そんな、こと……」
「考えてもごらんなさい。一ノ瀬の次期社長が、本気で名もなき一般職のあなたを選ぶなんて、あり得ますの?」
エリカ様は私の耳元でそう告げると、香水の強い残り香だけを置いて去っていった。
◆◇◆◇
その日の午後
専務室に呼ばれても、私は涼さんの顔を見ることができなかった。
「琴葉さん、どうしたんだい? 目が合わないけれど」
「……いえ。少し、寝不足なだけです、専務」
「『涼』と呼んでと言ったはずだよ」
涼さんがデスクを回ってこちらへ歩いてくる。
いつもなら心地よい彼の歩み寄りが、今は逃げ出したくなるほど恐ろしい。
彼の手が私の肩に触れようとした瞬間、私は反射的に一歩、後ろへ下がってしまった。
「……天音さん?」
涼さんの声から色が消える。
琥珀色の瞳に、戸惑いと、それからかすかな怒りが宿るのがわかった。
「……すみません。すぐに仕事に戻ります」
私は逃げるように専務室を飛び出した。
あんなに優しくされて、あんなに熱く求められたのに。
結局、私は「契約」という盾がなければ、彼の隣に立つ資格さえない。
好きになってはいけないとわかっていたのに。
私の心は、もうボロボロに傷ついていた。
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