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第15話:ヒグマの土下座と、神獣の威厳
「おい、バカ、シロ! 戻れ!!」
俺の悲痛な絶叫が、新緑の裏山に空しく響いた。
体重300キロを優に超えるであろう、北海道の頂点捕食者・野生のヒグマ。
その圧倒的な暴力の化身の真正面へと、体重わずか数キロとはいえヒグマに比べれば圧倒的に小さな真っ白な毛玉が、トコトコと歩み出てしまったのだ。
「シ、シロちゃん……っ!」
背後で腰を抜かしている小春ちゃんが、悲鳴のような声を上げる。彼女の手にあるジンバル越しのスマホ画面では、50万人の視聴者がこれから起こるであろう最悪の惨劇を予感し、チャット欄を凄まじい速度で流していた。
『ああっ! シロ様が!!』
『逃げろおおおおおお!!』
『見れない! 目をつぶった!!』
『誰か嘘だと言ってくれ!!』
ヒグマは、自分の縄張りにふてぶてしく歩み出てきた小さな白い生き物を見下ろし、苛立たしげに『ガァルルルッ!』と野太い唸り声を上げた。
そして、丸太のように太い前足を高く振り上げた。先端には、人間の頭蓋骨など容易く粉砕するであろう、鋭く湾曲した凶悪な爪が光っている。
それが振り下ろされれば、シロの小さな体など一溜まりもない。
「シロォォォッ!!」
俺が捨て身の覚悟で地面を蹴り、シロを庇おうと身を挺した、まさにその瞬間だった。
『……ニャァ』
静寂。
シロの、甘ったるくも、どこか絶対的な響きを帯びた一声が、森全体を支配した。
風が止まった。
木々のざわめきが消えた。
いや、それだけではない。ヒグマが振り下ろそうとしていた巨大な腕が、空中でピタリと硬直したのだ。
「……え?」
俺は目を見開いた。
シロは、サファイアとアンバーの神秘的なオッドアイを細め、見上げるほど巨大なヒグマを、ただ『一睨み』しただけだった。
しかし、その小さな体から、いつも俺たちを癒やしてくれる温かいマイナスイオンとは全く質の違う、圧倒的で、暴力的ですらある『神聖な重圧(プレッシャー)』が放たれたのがわかった。
画面越しに見ている視聴者には、シロの体から淡い真珠色の光が、波紋のように広がっていくのが見えただろう。
それは、生命としての『格』の違い。
大自然の頂点に立つヒグマの、野生の生存本能が、限界を超えて警鐘を鳴らしたのだ。
『これ以上動けば、存在そのものをこの世から消し飛ばされる』と。
「グル……ッ、キュゥゥ……ン」
ゆうき あきや
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#心理描写重視
先ほどまでの地鳴りのような咆哮が嘘のように、ヒグマの口から、怯えた子犬のような情けない鳴き声が漏れた。
そして――信じられない光景が起きた。
ヒグマは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、振り上げていた腕を下ろした。
そのまま巨大な体を折りたたみ、両方の前足を地面にぴたりと揃え、その間に自分の頭を深く擦り付けたのだ。
「……………………は?」
俺の口から、間抜けな音が漏れた。
ヒグマが、丸まっているのではない。
完全に、俺たち……いや、シロに向かって『土下座』をしているのだ。
背中の毛を震わせ、微動だにせず、ただひたすらに「申し訳ございませんでした」と平伏している。
『フンッ』
シロは「わかればいいのよ」とでも言いたげに、短く鼻を鳴らした。
そして、プイッと顔を背け、俺の方へと優雅な足取りで戻ってきた。
その『許し』のサインを理解したのか、ヒグマはビクッと体を震わせると、土下座の姿勢からズルズルと後ずさりし始めた。
そして、十分に距離を取ったところで弾かれたように立ち上がり、来た時以上の猛スピードで、キャンキャンと怯えた声を上げながら笹藪の奥深くへと逃げ去っていった。
バキバキバキッ……という足音が遠ざかり、やがて森は再び、平和な野鳥のさえずりを取り戻した。
「……お兄、さん……」
「……あぁ、大丈夫か、小春ちゃん」
俺がへたり込んでいる小春ちゃんに手を差し出すと、彼女は涙目で俺の腕にすがりついた。
「よ、よがっだぁぁ……死ぬかど思いまじだぁぁ……!」
「俺もだよ……。心臓が口から飛び出るかと思った」
俺は深々とため息をつき、足元で「私の活躍、見た?」とばかりに見上げてくるシロを抱き上げた。
相変わらず、絹のように滑らかな手触りと、極上のマイナスイオン。つい十数秒前、山の主を視線だけで平伏させたバケモノ(神獣)とはとても思えない。
「お前なぁ……寿命が縮むから、無茶な真似はするなよ」
俺が少しだけ震える手でシロを撫でると、シロは『ゴロゴロ』と喉を鳴らして俺の顎を舐めた。
その平和な光景の裏で。
小春ちゃんの足元に転がっていたスマートフォンの画面は、人類史に残るレベルの大爆発を起こしていた。
『え??????????』
『はあああああああああああああああ!?!?』
『ど、土下座……!?』
『野生のヒグマが土下座したぞ!?!?!?』
『覇王色の覇気!? 今の絶対覇王色の覇気だろ!!!』
『熊「あ、これアカンやつや(土下座)」』
『Apex Predator(頂点捕食者)が変わった瞬間を、俺たちは目撃した』
『うちの猫、最強すぎるだろwwwwww』
50万人の視聴者が、恐怖から一転、歓喜と爆笑と極度の混乱に叩き落とされていた。
チャット欄のスクロール速度は完全に限界を突破し、ただの白いモザイク状にしか見えない。
『(ドバイの石油王からの¥50,000ギフト)=”GOD ALMIGHTY!! SHIRO IS THE TRUE KING OF THE FOREST!!“(全能の神よ!! シロこそが森の真の王だ!!)』
『(スイスの銀行家からの¥50,000ギフト)=”This is a miracle! I will double the luxury cat food!“(これは奇跡だ! 高級キャットフードを倍増させよう!)』
『(ハリウッド女優 シャーロットからの$500ギフト)=”My hero… I’m crying…“(私のヒーロー……涙が出てるわ……)』
世界中のセレブたちから、命拾いへの安堵と、シロの圧倒的なカリスマに対する『お布施(赤ギフト)』が、狂ったような勢いで降り注ぎ始めた。
画面の右端は、赤、赤、赤の極彩色で完全に埋め尽くされている。
「お、お兄さん……チャット欄が、MeTubeギフトの滝で何も見えません……」
涙を拭いながら画面を見た小春ちゃんが、呆然と呟いた。
俺はカメラの前にしゃがみ込み、まだ震えの残る体を落ち着かせるために一つ深呼吸をした。
そして、前職のコールセンターで培った、どんなクレームにも動じない『鋼のトーン』で、世界中へ向けて語りかけた。
「えー、皆さん、ご心配をおかけしました。お騒がせしましたが、全員無事です」
『無事じゃねぇよ!! 世界の常識が致命傷負ってんだよ!!』
『主、またなんか言い訳する気だろwww』
『適応力バグおじさんの見解を聞こうか』
「……先ほどの現象についてですが。北海道のヒグマというのは、非常に知能が高く、礼儀正しい生き物なんです」
俺は、自分の口から出ている言葉がどれほど狂っているかを自覚しつつも、真顔で言葉を紡いだ。
「あのヒグマはきっと、シロの毛並みの美しさを見て『これは人間様が大切にしている保護動物だ、手を出したら後で猟友会に怒られる』と高度な計算をしたのでしょう。ええ、あの姿勢は攻撃の意思がないことを示す、いわゆるカーミングシグナルというやつです。決して、猫の威圧感にビビって土下座したわけではありません。田舎の大自然では、よくあるコミュニケーションの一環です」
『あるかあああああああああああああああ!!!!!!』
『んな礼儀正しいヒグマがいるか!!!』
『限界集落おじさん、ついに生物学にまで喧嘩を売る』
『主の言い訳シリーズ、過去一で苦しくて草』
『これだから北海道は恐ろしい……(白目)』
俺の苦し紛れすぎる現実逃避に、50万人の視聴者から総ツッコミの嵐が巻き起こる。
「あははっ……! もぉ、お兄さん、無理ありますってば……!」
小春ちゃんも、張り詰めていた糸が切れたのか、涙目になりながらお腹を抱えて笑い始めた。
『ニャァ(お腹すいた)』
俺の腕の中で、シロが欠伸をした。
ヒグマを追い返したことなど、朝の散歩の準備体操程度にしか思っていないらしい。
「そうだな。帰って、スイスの銀行家からもらった高級マグロ缶でも食うか」
俺たちは笑い合いながら、木漏れ日の差す山道を下り始めた。
世界中がどれだけ「奇跡だ」「神獣だ」と騒ぎ立てようとも、俺たちの目指す場所はただ一つ。
あのボロボロの古民家の縁側で、ぽかぽかと昼寝をする、圧倒的に平穏な『日常』だけだ。
最強の神獣(もふもふ)と、元気なカメラマン女子高生。
そして、どんな異常事態も「田舎あるある」で片付けようとする元社畜。
北の大地からお届けする世界一バグったスローライフ配信は、今日も無事に、平和な夕暮れを迎えようとしていた。
コメント
1件
いやー、今回も最高でした!ヒグマがシロの一睨みで土下座するシーン、鳥肌立ちましたよ。あの「格の違い」を見せつける重圧感、そしてすぐに「いつものシロ」に戻るギャップがたまらない。主人公の「礼儀正しいヒグマ理論」にも思わず笑っちゃいました。世界観がどんどん広がって、次が気になって仕方ないです!