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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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隣に置く、というのは、比喩ではなかった。
懲戒委員会から十分後、私は四十三階にいた。
社長室。壁一面のガラスの向こうに、東京駅の屋根と、昼の皇居の森が見える。窓際に黒い執務机、手前に来客用の白いソファ。経理部の島と同じ地球の上にあるとは思えない部屋だった。
「座れ」
社長は執務机の向こうから、白いソファを顎で示した。
座ると、思ったより深く沈んだ。グレーのカーディガンの裾を、膝の上で引っ張って直す。
「瀬名灯。今日付けで、派遣契約は終了だ」
やっぱり、と思った。
「明日付けで、契約社員として雇い直す。所属は社長室。私の専属秘書だ」
「……え?」
「条件は一つ。私の前で嘘をついた人間を、全部教えろ」
シルバーフレームの眼鏡の男が、一歩前に出た。社長室長の柏木誠司。社長の唯一の側近だと、名前だけは知っている。
「社長。お言葉ですが、その女性の身元は確認できておりません。横領の嫌疑も晴れていない者を、社長室に入れるわけにはまいりません」
硬い敬語。輪郭はまっすぐな一本の線だった。この人は、本気で社長を心配している。
「身元なら、あとで好きなだけ調べろ」
「社長」
「柏木」
名前を一度呼ばれただけで、室長は口を閉じた。代わりに、私を見る目が一段冷たくなる。
私は膝の上で手を組んだ。
「お断りします」
二人の視線が、同時にこちらを向いた。
「私は、目立ちたくないんです。派遣の経理で、伝票を打って、定時に帰る。それで十分です。社長の隣なんて、一日で噂になります」
「もう、なっている」
社長はこともなげに言った。
「委員会の五人が、昼までに全員にしゃべる。君が戻れる経理部は、もうない」
返す言葉がなかった。
あの会議室で、私は眼鏡を外してしまった。課長の嘘を、大勢の前で嘘だと言ってしまった。
戻ったところで、待っているのは野々村の歯茎と、ゆりなのため息だけだ。
「一つ、聞いてもいいですか」
「三十秒で済ませろ」
「どうして、私を?」
社長は机の引き出しから一枚の紙を出して、ガラスのローテーブルに置いた。
内部通報の受付票だった。
受付番号、〇〇四一。
手帳に書き写してある、あの番号だ。
「匿名の内部通報を送ったのは君だろう。あれを読めば、君が何を見ているかはわかる」
私は彼の顔を見た。輪郭は動かない。
「交際費の領収書、同じ取引先、同じ金額。日付だけを変えたものが十四枚。それを見つけたのは数字だ。だが通報の最後の一行は、数字では書けない」
社長は受付票の下の余白を指で叩いた。
そこには、私が送信の直前に付け足した一文が印字されていた。
『課長は、この件を部下に聞かれるたびに、同じ笑い方をします』
「顔を見て書いた文だ。経理の人間の文じゃない」
頬が熱くなった。書かなければよかった、と送ったその夜に後悔した一行だった。
「でも、社長はどうしてこれを。通報は、窓口の担当者しか読めないはずです」
「窓口から、情報が漏れている」
柏木が、わずかに身じろぎした。
「君の通報が課長に伝わったのが、その証拠だ。だから私は、窓口を通さずに、全部の通報を読んでいる。柏木が写しを取って、毎朝ここへ持ってくる」
鳥肌が立った。
漏れていた。私の通報は、誰かの手で野々村に渡っていた。
それが誰なのかは、この人もまだ知らないのだ。
「……もう一つだけ」
「三十秒は過ぎた」
「私の名前。委員会の人は、誰も読めませんでした」
社長の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「瀬名灯という名前は、今朝の懲戒委員会の資料で初めて見た。読み方は、ふりがなを見ればわかる」
一本の線。
ぶれない。
資料にふりがなはなかった気がするけれど、私が見落としたのかもしれない。嘘ではないなら、そういうことなのだろう。
*
「見え方を説明しろ」
社長が言った。命令形だった。
私は眼鏡を外して、膝の上に置いた。
「嘘をついた瞬間、その人の顔の輪郭が、二重にぶれて見えます。本当のことを言っているときは、一本の線です。ただ、言い終わってから三秒は顔を見ていないとわかりません。口元と目元の両方が見えていないと、だめです」
「目を逸らしたら嘘だ、というのは」
「俗説です」
即答すると、柏木が眉を動かした。
「目を逸らすのは、緊張している人も、恥ずかしがりの人も、思い出そうとしている人もします。鼻を触るのも同じです。むしろ、嘘に慣れた人ほど、まっすぐ目を見て嘘をつきます」
「では、何を見ている」
「動きです。瞬きの止まり方。口角と目尻のずれ。言い終わったあとに、相手が信じたかどうか確かめる目。体のほうは、言葉ほど器用じゃないので」
私は少し迷ってから、続けた。
「顔は嘘をつけないんです。言葉だけが、器用なんです」
社長は黙って私を見ていた。
それから、わざと窓の外に目を逸らした。
「私は今、君の話を信じている」
一本の線。
目を逸らしたまま、本当のことを言った。
「……試さないでください」
「試してはいない。確かめただけだ」
同じことだと思う。
柏木が、手帳を閉じる音を立てた。
「社長。それでも私は反対です。能力とやらが本物だとしても、本人が嘘をつかない保証はございません」
「だから君がいる。彼女を見張れ。私は、彼女に私以外を見張らせる」
柏木は唇を引き結び、それでも深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
社長が立ち上がる。机を回って、私の前まで来た。
近くで見ると、腕時計がやけに古かった。文字盤の縁が擦れた、手巻きの機械式。この部屋の何にも似合わない。
「給与は、派遣のときの倍を出す。初月の分は前払いにする。母親の入院に間に合うように」
「……どうして、母のことを」
「派遣会社の登録票に、緊急連絡先と、休職中の理由が書いてあった。今朝、委員会の前に読んだ」
ぶれない。
今朝。全部、今朝だ。この人は今朝、私の書類を一枚残らず読んで、四十二階まで降りてきたのだ。
「一つ、確認する」
社長は柏木からタブレットを受け取り、画面を私に向けた。十九時四十分の送金記録。操作端末の欄には、私の席のパソコンの番号が並んでいる。
「君のIDとパスワードを知っている人間は」
「私だけです。……と言いたいところですが」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「去年、課長に言われて、紙に書いて提出しました。管理のためだと。派遣は全員です」
「その紙は、どこにある」
「課長の机の、鍵のかかる引き出しです」
柏木が、黙って手帳に何か書きつけた。初めて、私の言葉を記録する手つきだった。
「派遣さんはね、言われたことだけやればいいの。課長は紙を受け取りながら、そう言いました」
「それも、顔を見て覚えたのか」
「声のほうです。顔は、見ないようにしていましたから」
社長は何も言わなかった。ただ、タブレットを柏木に返すとき、その指先に少しだけ力がこもったように見えた。
「私は、まだ横領犯です」
「知っている」
社長は、私の外した眼鏡を拾い上げ、私の手に戻した。指先が一瞬だけ触れて、離れた。
「君の濡れ衣は、三日で晴らす」
冷たい声のまま、彼は言った。
「その代わり、君は二度と経理部には戻れない」
コメント
1件
読み終えました。まず、社長室の空気感がひしひしと伝わってきて、息を止めて読んでしまいましたね。一番印象的だったのは、瀬名が「顔は嘘をつけない」という台詞です。この能力の根源の描写と、その限界を自分で説明しているところがとても説得的だった。柏木室長の警戒心も、単なる敵役じゃなくて「社長を本気で心配している」と読み取れる細やかさが良かったです。内部通報が課長に漏れていたという設定も、組織の闇がじわじわ見えてきて続きが気になります。