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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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三日のうち、一日目の朝。私は社長室の隣の小会議室で、昨日まで同じ島にいた人と向かい合っていた。
「えー、なんで私がまた呼ばれるんですかぁ? 委員会で全部話しましたけど」
早乙女ゆりなは、ピンクベージュの爪で前髪をつまみながら、私ではなく社長のほうを見た。
社長は窓際に立ったまま、腕を組んでいる。柏木室長は扉の前。私は、ゆりなの正面の椅子。
昨日まで派遣と主任だった二人が、今日は聴き取る側と聴き取られる側だ。
「早乙女さん。もう一度だけ、あの夜のことを聞かせてください」
「だからぁ。七時半すぎに、ロッカーにスマホの充電器を忘れたのに気づいて戻ったんです。そしたら、瀬名さんの席だけデスクライトがついてて」
「席に、人はいましたか」
「はい、瀬名さんの席に人がいました」
輪郭は、一本の線。
ぶれない。
けれど、「はい」と言いながら、彼女の首がほんのわずかに横へ振れた。右に一度、髪の先が揺れるくらいの幅で。
言葉は「はい」と言っている。体は、そうでもないと言っている。
「その人の顔は、見ましたか」
「顔、ですか?」
ゆりなは瞬きをして、天井を見上げた。思い出そうとするときの、まっとうな目の動きだ。
「……背中、ですね。灰色のカーディガンの。瀬名さん、いっつもあれ着てるじゃないですかぁ。だから、瀬名さんだなって」
「声をかけましたか」
「かけてないです。だって、なんか怖いし。瀬名さんって、いっつも人の顔じーっと見てて」
柏木室長が、小さく咳払いをした。
私は、ゆっくり息を吐いた。
彼女は嘘をついていない。見たものを、見たとおりに話している。
ただ、彼女が見たのは「人」ではなかった。ついたままのデスクライトと、灰色のカーディガンを着た、誰かの背中だ。
「ありがとうございました。もう結構です」
ゆりなは立ち上がりながら、社長に向かって小首をかしげた。
「社長ぉ、私、何か悪いことしましたぁ?」
「していない。今のところは」
社長の返事に、彼女の笑顔が一瞬だけ固まった。
*
扉が閉まると、社長がこちらを向いた。
「カーディガンは、一着しか持っていないのか」
「三着です。同じものを」
柏木室長の眉が、かすかに動いた。
「一着は、経理部の椅子の背に掛けたままにしています。あの島は、空調の吹き出し口の真下なので」
「あの夜もか」
「はい。十八時二分に退館したとき、椅子の背に掛けていきました」
そこで、私は思い出した。
「翌朝、それが床に落ちていたんです。椅子の脚の横に、丸まって。誰かが落としたんだろうと思って拾ったら……」
「どうした」
「肩の縫い目が、伸びていました。両方とも」
社長の目が、わずかに細くなる。
私は自分の肩幅を見下ろした。小柄な私が着て、縫い目が伸びるはずがない。
「着たのは、君よりずっと肩の広い人間だ」
「はい」
「カーディガンは、どこにある」
「ロッカーです。洗っていません。洗う気になれなくて」
柏木室長がもう一度手帳に書きつけ、無言で部屋を出ていった。回収に行ったのだと、少ししてからわかった。
*
昼過ぎ、社長室の内線が鳴った。
受話器の向こうから、場違いに明るい声が飛び込んでくる。
「あ、灯? 私、私。まどか。今、社長室に上がっていいって言われたんだけど、ほんとに上がっていいの? ねえ、絨毯ふかふか?」
十分後、日向まどかは社長室の白いソファの端に、恐る恐る腰を下ろしていた。
明るい茶色のボブに、大きなイヤリング。一階の受付に座っている、私と同じ派遣会社の同期だ。この会社で、私が下の名前で呼べる唯一の人。
「灯の件で総務に回ってきた照会、私が担当になったの。入館ゲートの記録と、仮カードの発行簿」
まどかは、社長の視線に一瞬ひるんでから、ファイルを開いた。
「瀬名灯、四月七日、十八時二分に退館。そのあと、入館の記録なし」
「当然だ」
「で、ここからが本題です」
まどかは、受付で使う仮カードの発行簿のコピーを指で叩いた。
「十九時三十一分。仮カード一枚、発行。理由は『社員証を自宅に忘れたため』。受け取りのサイン、経理部、野々村達也」
部屋の空気が、一段静かになった。
「その時間の受付は、夜間の警備員さんなんで、私じゃないんですけど。でもね、もっと変なのがあって」
まどかは別の紙を重ねる。
「野々村課長本人の社員証、同じ日の十八時三十分に退館してるんです。忘れたはずのカードで、ちゃんと帰ってるの」
「つまり」
社長が言った。
「十八時三十分に自分のカードで帰り、一時間後に、カードを忘れたと言って戻ってきた」
「そういうことです、社長」
まどかは胸を張ってから、急に小声になった。
「……あの、これ、私が見つけたって言わないでもらえます? 総務って、噂が回るの速いんで」
課長は、委員会で言っていた。
私はね、六時半には帰ってますよ。
あれは、半分だけ本当だったのだ。
*
夜九時。
社長室の私の机は、扉の横、社長の執務机が見える位置に置かれていた。昨日まで物置だったらしい机の上に、経理システムのログと、ゲートの記録と、仮カードの発行簿が広がっている。
一つずつ時刻を書き出す。十八時二分、十八時三十分、十九時三十一分、十九時四十分。
時刻の並びはきれいなのに、決め手がない。仮カードで入館したことは、送金を操作した証拠にはならない。
こめかみが、じんと痛んだ。
机の端に、紙袋が置かれる音がした。
顔を上げると、社長が立っていた。コートを腕にかけている。
紙袋の中に、同じ店のサンドイッチが二つ。
「一つは私のだ。君の分ではない」
「……はい」
社長はそれだけ言って、コートを羽織り、扉へ向かった。
袋の中のサンドイッチは、二つとも手つかずのまま、私の机の上に残っていた。
扉が閉まる。
私は袋を見て、閉まった扉を見て、もう一度袋を見た。
「……どっちが社長の分なんですか」
誰もいない部屋で言っても、答えは返ってこない。
眼鏡が曇っていた。サンドイッチの温かさのせいかもしれない。
ポーチから、古いハンカチを出す。白い木綿。洗いすぎて柔らかくなった生地の隅に、R.T.という頭文字と、小さな羽根の刺繍。
十五年前、父の葬儀の日に、知らない少年がくれたものだ。名前も聞かなかった。誰のものかもわからないまま、私はずっとこれを持ち歩いている。
レンズを拭いていて、ふと視線を感じた。
扉のガラス越しに、社長がまだ廊下に立っていた。
その目が、私の手元のハンカチの上で、一瞬だけ止まった気がした。
すぐに彼は背を向け、エレベーターホールのほうへ歩いていった。
気のせいだろう。
私はハンカチをしまい、サンドイッチを一つだけ取り出した。
*
十時を過ぎたころ、柏木室長が戻ってきた。手に、一枚のディスクと、私のカーディガンの入った袋。
「防犯カメラの記録を、警備会社から取り寄せました。経理部の天井の、北東の角のものです」
室長は硬い声のまま、ノートパソコンに映像を映した。
「瀬名さんの席は、パーテーションの陰になっていて、上半身は映っていません」
十九時三十九分。四十分。
画面の端、パーテーションの下の隙間に、私の机の脚と、椅子の脚が映っている。
その椅子の横に、靴があった。
私の、黒い合皮のパンプスではない。
つま先の丸い、男物の、茶色い革靴だった。
コメント
1件
うわっ、これ面白い……! ゆりなの証言、口では「はい」って言ってるのに首が振れてるの、描写細かくてゾクッとしたわ。それにカーディガンの縫い目が伸びてるって、肩幅の広い人が着た証拠って伏線の張り方が上手すぎる! しかも野々村課長、自分で退館した後に仮カードで戻ってるし、防犯カメラに映った男物の革靴……これはもう完全に怪しいよね。社長がサンドイッチ置いて「君の分ではない」って言いながら結局二つとも置いていくところ、不器用な優しさが滲んでて好き。灯ちゃんのハンカチに一瞬視線が止まったのも気になるし、続きが待ちきれない!!