テラーノベル
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「悪い場所ってあるよね」
「水って字が入った土地は水害が起こりやすいみたいな?」
「そういった郷土史的なやつじゃなくて、よくわからないけど場所自体が悪いってやつ」
夏を切り取ったカジュアルな放課後だった。
空城海斗に背を向けしゃがみ込んでいるのは神田夕奈だ。
ジャージ姿で土を掘り返す彼女を見て、子供のころも公園の砂場で小さなシャベルを手に遊んでいたことを思い出したが、今の彼女の装備は大きなシャベルと三本爪の鍬だ。
「立地は悪くないはずなのに、いつの間にか店がつぶれてるの。すぐに新しい店が入るんだけど、その店も……」
「ああ、そんな場所ってあるよな」
人が立ち寄らない淀んだスポット。いつの間にか閉店し人々の記憶からも消えてしまう。
「前はここは三人制のバスケットコートだったの。その前は確かハンドボール。その前は……わからない」
蔦が絡みついた奇妙なオブジェはバスケットゴールのポールだったのか。
「どんな花を植えるか気になる?」
ここに花を植えるつもりなのかと海斗は驚いた。
旧校舎の裏庭。重々しい空気が充満し日差しが遮られているように感じる。
雑巾をいくらきれいに洗おうともハンカチに昇格することはない。同じくここにどんなに綺麗な花を咲かそうとも、陰鬱な雰囲気が変わるとは思えない。
だが汗をかく夕奈を前にそれは口にしない。
「バスケット部が閉店して、ここを園芸部に押し付けられたのか」
「押し付けられたのかわからないけど、数年前からここは園芸部が管理してるの」
彼女がこうして放課後に土いじりをしているのは園芸部だからだ。
といっても、その大半が幽霊部員で構成され、活動しているのは夕奈だけだ。
表現するならごく普通の女子高校生。
空城海斗との関係性は子供の時からの知り合いで、幼馴染というシンプルな言葉で表現できる。高校はクラスが別になり会話はほとんどないが、その関係は沈黙を恐れない。
「園芸部はこの時期に毎年同じ花を植えるの。咲いた花から種や球根を取って来年に繋ぐ。それをずっと繰り返してるんだって」
「なんでそんな無駄なことを?」
「その花が咲くのは一瞬だけど、だからこそ価値があるって感じない? その一瞬は無駄な時間じゃないと思うの」
「いや、花を否定してるわけじゃなくて、その伝統的なことだよ」
「それは……なんかの意味があるんじゃない? 儀式的な感じのエピソードが園芸部にも残ってたような気がするもん」
夕奈の声のトーンが落ちる。やはり伝統などの格式ばったリレーで繋いだものではない。
ただ、理解はできた。
確かにここは悪い場所だ。水は腐敗し鉄は錆びるような瘴気が充満している。それは花の香りで上書きできないほどに。
だからこそ上っ面だけでも綺麗に見せたいのかもしれない。
「それより、海斗はなんでここに来たの?」
作業を中断した夕奈がこちらを向いた。
「花の色が知りたくて」
「嘘ね、君ってそんな無駄なことはしないから」
海斗は夕奈から視線をそらし寂れた旧校舎を向く。
悪い場所に悪い要件。悪いもの同士は誘引されるようになっているのかもしれない。
*
――そして続きは放課後の夏の屋上から。
「俺たちはあくまでも理知的に問題を解決したい」
こちらを見もせず知恵の輪に没頭しているのは権藤猛というクラスメイトだ。
キャラクターの説明するならば、人望に厚く教師からの信頼もある優等生だ。
彼の横には同じくクラスメイトの男子が三人。
クラスの相関図を作成すれば、この四人はクラスの中心に位置するだろう。
「俺たちはもう高校二年生だ。受験を前に教師や親からプレッシャーってやつを背負わされる」
権藤の言うとおり、この学校は進学校のカテゴリーに入る。
「その蓄積されたストレスは教室っていう箱に溜まっていく。だから、どこかでそのストレスってやつをスムーズに抜く必要がある。でないと──こうなる」
権藤が知恵の輪を引きちぎった。
「これがスムーズな解決方法なのか?」
海斗はひしゃげた知恵の輪の残骸に視線をやる。
「合意があればイジりってやつだ。別に俺らは強要してない」
権藤の横に立つ男子がへらへらと笑っている。
視線を戻すと、小柄な男子生徒がうつむいている。
彼は岬倫太郎という生徒だ。
キャラクターの概要は体も気も小さい男子。そして海斗の小学校時代からの友人だ。
「本当に合意だったのか?」
海斗はうつむく岬に聞く。
発端は倫太郎に相談をされたこと。
そして彼が放課後にこうして旧校舎の屋上に呼び出されていることを知った。
イジりと称して不条理な扱いを受けていること、明らかに本人の意思じゃないことも。
「合意が必要なら今から取ってやる」
権藤が初めて海斗の目を見た。
「今からお前らは殴り合う。だが俺たちは何も強要してない。お前らが勝手に殴り合うだけだ」
海斗はぎりっと歯を食いしばった。
表向き優等生の彼らはあくまで自分の手を汚さない。
自分の評価を守りながら他人を傷つけ、傷つく人間を安全圏から鑑賞する。
「それが嫌だったら空城、お前はここから出ていけよ。俺たちは岬君と遊ぶからよお」
取り巻きの男子の声に、倫太郎の体がぶるっと震える。
「俺たちは毎日十分間この屋上で岬と遊んでる。参加するかしないかはお前の自由だ」
権藤の言葉に海斗はちらりと扉を見る。
……だめだ、ここで倫太郎を見捨てるわけにはいかない。
だとしたら教師に助けを求めるべきか?
いや、教師は自分の発言を信じはしないだろう。権藤たちは教室では一片の隙も見せない優等生なのだ。そもそもこの学校において教師と生徒の関係は希薄だ。原因は教師も生徒もお互いを下部組織だと認識していることにある。
「構えろよ」
権藤に促され岬がファイティングポーズを取った。
「ごめん、海斗」
震える倫太郎の細い両腕を見て海斗は──受け入れた。
「いいよ、やれよ」
友人を殴ることはできなかった。だったら観客を楽しませてやることはない。
そんなことを考えながら突っ立っていると倫太郎がこぶしを振り上げる。
体の線の細い倫太郎のパンチはとても軽く遅い。
テンポよくかわし、ときにはガードをしてあしらう。
だが観客たちの声に押され、少しずつ倫太郎のパンチに力が入っていく。
「ガードの隙間を狙え!」
「コンビネーションを使えよ」
声に押された倫太郎の勢いが強まり、海斗は思わずこぶしを握る。
「そっちのサンドバッグもやりかえせ!」
そんな声に海斗の動きが止まり、同時に視界が明滅した。
パンチが顎に入り、脳を揺らされた海斗は思わず膝をついた。
「ナイスパンチ!」
そんな歓声を聞きながら、海斗は吐き気をこらえていた。
視界がぐるぐると回り耳鳴りがする。
「よう、少しはエンタメしようぜ」
顔を上げると、目の前に権藤の顔があった。
海斗はせめてもの抵抗にと侮蔑の視線を投げつける。
「こんなことをやって楽しいのか?」
海斗のクラスは表向きは健全だ。
テストの平均点もよくイベントでも協調性がある、と上々の評価されている。
その健全さはこの醜い下地があったからなのか?
「いいか空城」
権藤は海斗を諭すような口調で説明する。
「俺たちはクラスメイトを殴りたいわけじゃない。そんな問題を起こして将来を棒に振るなんて馬鹿げてる」
「じゃあなんで……」
「必要なんだよ。スケープゴートってやつだ」
スケープゴート。
集団のストレスや不平を受けとめる人間。もともとは生贄のヤギという意味だ。
旧約聖書では人々の罪を背負って荒野に放たれたとされる。
「俺たちは期待されてる。いい大学に入って一流の会社に就職ってレールがあるんだ」
「だからなんだ?」
「途中下車は許されない。そんなプレッシャーの中で学校生活をしている」
「それはお前だけじゃない」
「そうだ、みんながストレスにさらされ歪みができる。放置しておくと底辺学校のようにくだらないいじめやらがはびこる」
「そのくだらない行為は、今のお前がやってることじゃないのか?」
「お前はわかってない。これは俺たちの正義ってやつだ」
その言葉の意味を理解できなかった。
「俺らはクラスの上位者になりたいわけじゃない。そんな虚構の場所を競っても意味がない」
ここで気づく。この馬鹿げた言動は権藤の本心なのだと。
「底辺ってやつが一人いるだけでクラスの連中が助かるんだ」
「だからか?」
「そうだ、だからたった一人に犠牲になってもらうんだ」
だからその生贄に岬倫太郎が選ばれたというのか。
「一匹のヤギでその他のクラスメイトが救える。とってもいい話だろ」
偏差値の高い優秀な進学校の闇。彼らは理性的でいて合理的な解決をはかった。
最底辺に落ちる恐怖をなくすために生贄を選出した。
「歪な教室っていう容器の底におさまってくれよ」
権藤は優しい笑みを浮かべると倫太郎に向く。
「最後に一発で今日は終わりだ」
権藤に促され、倫太郎がパンチを海斗の顎に入れる。
意識が飛んだ。
*
あきれるぐらいの真っ青な空が見えた。
空城海斗はひとり大の字に倒れていた。
「また明日な」との言葉を残して権藤たちは立ち去った。
旧校舎のさびれた屋上での醜いショーは終わった。
これだけ空は真っ青なのに、この屋上には人が来ない。
部室や倉庫に使われてるだけの旧校舎ということもある。そもそもフェンスが壊れた危険なこのエリアは、立ち入り禁止となっている。
それでも壊れた用具が放置され、さらに増えていく
──悪循環だ。
どんどん悪い場所に悪いものが増殖していく。狂犬病のように感染していくのだ。
体を起こそうとしてよろけた。脳へのダメージが回復せずに視界がぐるぐると回っている。
倫太郎はずっとあんなことをやられていたのか。
そして自分はそれに気づかなかったのか?
いや、気づいてしまった。そしてバトンは自分に渡された。
教室の最底辺というポジションをパスされた。
──また明日な。
終わっていない。これから醜いショーはこの屋上で続く……。
「俺はヤギか」
海斗は自嘲気味につぶやいた。
スケープゴートと呼ばれる生贄のヤギが犠牲になれば、他は安全を確保できる。
海斗は一刻も早くここから立ち去ろうと、ふらつきながらも立ちあがった。
同時にひらりと紙片が舞い落ちた。
それは倫太郎が「治療費に」と置いていった三枚の千円札だった。
その剝き出しの三千円を見て、胸がズキンと痛んだ。
この金で友情という実体のないものを維持しようというのか?
怒りに破り捨てようとしたが思いとどまった。
倫太郎自身には悪意はない。彼も恐怖に怯えるヤギなのだから。
海斗は千円札を拾い、しばし立ち尽くす。ゆっくりと呼吸をすると揺れていた視界が安定しクリアになっていく。ゴミだらけの乱雑な屋上……。
そんな視界に映ったのは小さな祠だった。
……祠?
よくあるやつだろうか。大きなビルの上に祠を建てるというパフォーマンス的な行為を聞いたことがある。
海斗は引き寄せられるようにその祠に近づいた。
朱色の塗料が剥げ無残な姿をさらした荘厳な置物には蜘蛛の巣が張っており、ご丁寧に小さな賽銭箱も設置されていた。
その神々しくも禍々しい雰囲気に、海斗は平静さを取り戻した。
軽薄な友情の代替ともいえる三千円を賽銭箱にねじ込み、大きく息を吐く。
大したことじゃない、しょせん馬鹿げた遊びの延長だ。
放課後のたった十分間程度。それならば一日のスケジュールにねじ込める。
……あれぐらいなら耐えられる。
いつかは連中も飽きるだろう。
そうだ、自分が耐えていればいつかは終わる……。
海斗は思考を整理し、祠に背を向けその場から立ち去りかけた──その時だった。
ふっと周囲の風景が揺らめき音が消えた。
空間が割れた。
空というドームにひびが入るように景色が剥離し落ちていく。
そして現れたのはモノクロの映像──世界から色が失われた。
*
「終わらなかった」
声が聞こえた。
振り返ると、祠に手を合わせるセーラー服姿の女子生徒の姿があった。
「……夕奈?」
そのシルエットは神田夕奈だ。
まず発生した感情は羞恥だった。夕奈に先ほどの無様なシーンを見られてしまったか、という恐れと恥ずかしさ。
だが、すぐに違和感に気づく。
夕奈は海斗がいないかのように虚空を見つめている。
そしてセーラー服。たった十五分前はジャージ姿で園芸活動をしていたはずだ。
「もっと早く知っていれば」
ふらっと夕奈が立ちあがる。
「それは知らなかった私の罪」
夕奈は屋上のフェンスに向かって歩いていく。
声が出なかった。というより体が金縛りになったかのように動かない。
「今から、私に、できる唯一は……」
夕奈の向かった先は穴の空いたフェンスだった。
「もしも、あれが、本当で……ば、私を、天上の神々の……生贄……」
夕奈がフェンスをくぐり、屋上の縁に立った。
「おい!」
声は届かない。
視界がフラッシュし、ふわっと宙に浮かぶ感覚に襲われる。
頭上を見ると雲が激しい勢いで流れていく。
「……え?」
左手首のデジタル腕時計の数字が目まぐるしく動いていた。
そして場面が飛ぶ。
*
その臨場感だけは本物だった。
目に映ったのは、権藤たちと岬倫太郎が屋上にいるシーン。
「今日も来るのか?」
英単語帳に目をやりながら権藤が口を開く。
「あいつはそういうやつだから」
倫太郎は平然とその問いに答えた。
「昔から全部自分で抱え込んでくれる」
……なんだこの場面は?
脳震盪を起こして幻覚を見ているのか?
ふわふわと体が宙に漂っている不安定さに対し、意識だけははっきりとしている。
それでも見えているビジョンには現実感があった。
「ストレス解消にはもってこいの素材だよ」
目の前にいる海斗にまったく気づくことなく倫太郎が笑う。
……彼らにはここにいる海斗が見えていない。
「おい、へらへらすんなよ。俺たちが仲良くしゃべってたらおかしいだろ」
「ちゃんと演技しとけよ」
権藤の取り巻きたちも薄笑いを浮かべている。
そのとき、きしんだ音を立て屋上への扉が開いた。
「……なんだと」
海斗は目を見開く。
入ってきたのは空城海斗──自分自身だった。
「約束どおりだな」
呆然とする海斗を前に、権藤がもうひとりの海斗に言う。
「始めようぜ」
海斗の前に倫太郎が出てくる。
先ほどとは違い青ざめた表情を作っている。
……演じ作られた仮面だった。
「今日は僕のことを殴ってくれ」
倫太郎が言う。
だが、目の前の海斗は手を出さない。
「やっぱり友達を傷つけたくない」
嗚咽しながら倫太郎が声を絞り出す。
「友達でいたいから、思いっきり殴ってくれ」
自分自身が出演している演劇を、自分が舞台で鑑賞していた。
キャストの空城海斗が薄く笑う。
それ見て海斗は吐き気に襲われた。捨て鉢、諦観、逃走、とそんな言葉を詰め込んだ表情だ。昔から自分の顔にこびりついていた仮面……。
そして始まったのは一方的に殴られる醜いショーだ。
海斗は自分自身の暴力を、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。
……これは回想だろうか。
霧のかかった思考を動かすが、すぐに違うとわかった。
目の前の空城海斗という木偶の坊はサンドバックのように殴られ続けている。
だが、今日の自分はわずかながら抵抗はしたはずだ。
ではこのビジョンはなんだ……。
空間にひびが入り光が退き闇に包まれていく。舞台に暗幕を下ろして場面を変えるようなイメージだ。
それが繰り返され、海斗は様々なビジョンを視た。
……いや、視させられた。
目を閉じることもそらすこともできず、ただビジョンを脳に押し込まれる。
エスカレートする暴力、腹を殴られ吐く自分。
倫太郎だけじゃなく周囲も暴行に参加するシーン。
雨が降るなか屋上に這いつくばる海斗。
左の手のデジタル時計の数字が暴走しては正常に戻る。
目の前の光景よりも、時計の示す日時に海斗の背筋は凍りついた。
……まさか。
またも空間が溶暗し、デジタル時計は次の日の放課後の時刻へ。
どうやら権藤たちは道具を使い始めたようだ。
外傷が残らないようにと考えスタンガンを押し当てられる自分の姿。
悲鳴を上げるが、取り巻き立ちに押さえられる海斗、そして失神。
不思議な諦念に包まれながら、観客である自分自身の視界も溶暗していく。
叫びたかったが声が出ない。
声が、出ない。
声が……。
「うわあああああ!」
海斗は自分の悲鳴に我に返った。
周囲を見ると誰もいない。
何事もなかったようにセミの声が聞こえる。
視界に色が戻り、飴色に錆びたフェンス、その背景に青空と白い雲が見えた。
異臭は、自分自身の脂汗だった。
海斗は頭を振って意識を覚醒させる。
……今のはネガティブな白昼夢だ。
クラスメイトに裏切られたショックで馬鹿げた幻想を見ただけだ。
先ほど起こったことはおふざけの延長にすぎない。黙って耐えていればすむ。そうすればいずれ飽きて終わることだ……。
ぴしりという空間に亀裂が入る音に、海斗はひゅっと呼吸を止める。
……ああ、まただ。
またも光が退き、世界がモノクロになった。
反射的に目を逸らすが、白黒の屋上には権藤たちの姿はない。
そのかわりに視界の隅で何かが動いていた。
警告のように心臓が早鐘を打つ。
すでに気づいていた。このモノクロシーンに自身は介入できない。あくまで観客であってキャストではないからだ。
目を向けてはいけないと理解していたが、危険な誘惑に抗えない。
壊れたフェンスの屋上の縁にセーラー服の女子の姿があった。
髪とスカートが風にふわりと揺らめき──
神田夕奈が飛び降りた。
*
海斗は旧校舎の階段を駆け下りていた。
息を乱しながら一階フロアにつくと、最短距離を走り外に出る。
揺れる視界がとらえたのは、風にそよぐ木々と雑草の生い茂る地面だ。
呼吸が整い蝉の声が耳に届いた。
旧校舎の裏庭には誰もいない。目の前には整備途中の花壇があるだけだ。
屋上を見上げると、空の大半は積乱雲の白で覆われていた。
空と地面に視線を行き来させ、海斗は大きく息を吐いた。
……何も起こっていない。
霞みがかった思考はそう結論づけた。
足元に水滴が垂れ落ち地面に染みていく。雨ではなくそれは自分の汗だった。
あのビジョン。
ゆっくりと回り始めた頭は、そのことを考え始めていた。
白昼夢、幻覚、そんな言葉で咀嚼できないほどリアリティ。まさに現実に起こったかのようなビジョンだった。
……起こったこと?
海斗は自分の言葉に違和感を持った。
ひとつ事実があるとすれば、あのビジョンは過去ではない。
では過去ではないとすると……。
頭を殴られたかのような痛みは、それ以上考えてはいけないという防衛本能だ。
それでも思考は回転する。
もしもだ、もしもあれが過去ではなく……。
未来という単語が頭に浮かんだとき、青い空が割れた。
浮遊なのか転落なのかはわからない。足場を喪失した感覚と同時に世界から色が失われる。
「ああ……」
海斗は息をのんだ。
目の前に白が広がっていく。地面より萌える新緑。それは白いつぼみを膨らませ、次々と花開いていく。その生命の息吹の前に、海斗はただ圧倒された。
モノクロで表現された限りなく白に近い白。
荒廃した裏庭が、一面真っ白な絨毯に覆われて……。
海斗の目に赤が映った。
モノクロの中に目にも綾な真っ赤なカラーがあった。
花畑の真ん中に赤い花々が咲いている。
……違う。
海斗は自分を操る糸が切れたかのように膝をつく。足から血が抜けていくような感覚だった。
ガチガチと歯が鳴り、全身の震えが止まらず、地面に縋りつくようにうずくまった。そうしていないと地面に沈んでいくような気がした。
赤は花の色じゃない。
その赤は違うと気づいていた。ただそれを認識したくなかった。
血の色のような赤を否定したい……。
目の前の花畑の中に墜落した少女の姿を認めることはできなかった。
最期の言葉も発することなく、彼女の瞳から光が失われていく。
それでも震える手を伸ばす。
うめき声のような声が喉から自然に出た。
「……夕奈」
そしてブラックアウト。
*
「まるで死人を見た顔ね」
その声は死者の囁きではない。
目の前にはジャージ姿の神田夕奈が立っていた。
「雨でも降ったの?」
汗で濡れた海斗を前に夕奈が首をかしげている。
世界中が晴れていたとしても、ここだけは雨が降っている気分だ。
海斗はまず左手首を見た。腕時計のデジタルは正確な数字を示していた。
「……夕奈、どこにいた?」
「道具を片付けてきたところだけど?」
「ずっとジャージのままだったか? さっき制服に着替えなかったか?」
「なんでそんな面倒なことするの?」
「屋上には、行っていないよな」
「尋問?」
苦い顔をする夕奈を前に、海斗の精神は少しだけ立て直された。
現実じゃなかった。今はそれだけの事実確認でよかった。
「それより海斗はまだいたんだね。無駄な時間を使うのが一番嫌いなのに」
「夕奈との雑談は無駄な時間じゃないよ」
「そういった無駄なことを言ってくれるの、なんか珍しい」
夕奈がふっと笑い、小首をかしげる。
「本当に花の色が知りたくなったの?」
――花の色。どくんと海斗の心臓の音が胸を殴る。
「花の色は……白」
「当たり。咲いた花を見たいならいちばんいい時期を教えてあげる」
海斗の記憶に数字が浮かび上がった。その数字の意味を引き出すのにしばし沈黙する。
「……夏休み前ぐらいか?」
「当たり」
鼓動が早まった。記憶の数字はデジタル時計の日時だった。
あのビジョンで手を伸ばしたときに目に入った数字が、脳裏に焼き付いていた。
「そこからあそこらあたりまで全部同じ花を植えるんだな」
「当たり。種だけで球根はまだだけどね」
「でも、あそこには赤い花を植える」
海斗は一縷の希望に縋って指をさす。
「外れ」
それは冷酷な回答だった。
「全部白だよ。オールホワイトの絨毯」
海斗の脳裏にあのビジョンが奔流のように流れ込む。
白い絨毯の上に落ちた夕奈の姿。
あの闇と光のはざまで目にした赤と白のコントラスト……。
「そうだ、白だけがいい」
海斗はあのビジョンを振り払った。
未来に咲くだろう白を、くだらない妄想で汚してはいけない。
そうして海斗は日常へと目を逸らした。
……しかし『それ』は離れることはなかった。
祝福か呪いなのかわからないが、始まった。
そして空城海斗は奔流に翻弄される。
彼は後にそれを──運命と呼ぶ。
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