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【《《烏羽 尊Side》》】
翌朝、金曜日
オートロックのガラス扉をくぐると、ひんやりとした無機質な空調の匂いが鼻をつく。
フロアへ向かうエレベーターホールは、まだ朝が始まらない静けさに包まれており
蛍光灯の眩しい光だけが、研ぎ澄まされた刃のように俺の孤独な背中を照らしていた。
重い足取りで自分のフロアへ向かい
エレベーターを降りた瞬間、視界の端に違和感のある人影を感じた。
いつものようにデスクへ直行しようとしていた足を止め、そちらへ視線を向ける。
角を曲がった給湯室の前、壁に背をもたせかけるように立っていたのは
待ち構えていたかのような鈴木だった。
「おはようございます、烏羽サン」
その声は、朝の挨拶としてはあまりにも不自然で、妙に浮ついていた。
抑えきれない喜びがにじみ出るような、軽いトーン。
その声が耳に届いた途端、俺の眉間には深い皺が刻まれた。
こいつがこんなに上機嫌な声を出すのは、俺に対して何か裏がある時だ。
長年の経験がそう警告していた。
警戒しながら、しかし平静を装い問いかける。
「おはよう、鈴木。朝っぱらから、ずいぶんご機嫌だな…お前から挨拶してくるなんて意外だが」
「いやー、実はちょっと急ぎで話があるんすよね。今、大丈夫っすか?」
不愉快とまではいかないが、親しげな、不気味なほどの口調。
「これなんすけど~」
そう言いながら、鈴木はポケットからスマートフォンを取り出し
まるで自慢の品を見せびらかすかのように、その画面を俺の顔の前に突きつけてきた。
光を放つ小さな画面に、見覚えのある場所が映っていた。
昨夜、残業を終えた俺と雪白が二人きりになったオフィスだ。
そしてそこに映し出されていたのは、俺が雪白をデスクに押し倒して唇を重ねている写真だった。
俺の心臓は一瞬で止まった。
いや、止まったように感じた。
心臓が握りつぶされるような、激しい痛みが胸を貫く。
頭が真っ白になり、顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
昨夜、あの瞬間、俺たちは確かに二人きりだったはずだ。
誰もいない、静寂に包まれたオフィスだったはずだ。
甘かった、完全に警戒心が緩んでいた。
怒りよりも先に、裏切られたような、神聖な場所を汚されたような
全身の毛穴が開ききったような不快感が込み上げてきた。
「なんで、お前がそんなものを…」
かすれた声で、怒りと困惑を滲ませながら問いかける。
鈴木は、俺のその反応を面白そうに眺め、ニヤニヤと笑った。
「これ、傍から見りゃケーキを襲うフォーク、部下を襲う上司ですよねー。いやー、いいもん撮れちゃったなと思って」
鈴木の声には、獲物を追い詰めた獣のような、明らかな嘲笑と嗜虐性が含まれていた。
俺は何も言い返せず、ただ目の前の現実を処理するので精一杯だった。
脳が、この状況を拒絶しようとしている。
これは夢だ、幻だと。
だが、手の中のスマートフォンの光が、それが紛れもない現実であることを突きつけてきた。
「これ、社内にばら撒かれたくないっすよね?雪白サンの立場とか、烏羽サンの立場とか、なくなっちゃいますよねー?」
まるで獲物を追い詰めた猟犬のような、粘りつくような悪意。
その言葉は、まるで氷の刃のように俺の胸に突き刺さった。
雪白の立場が危ぶまれる、俺の感情なんてどうでもいい。
ただ、彼が傷つくことだけは絶対に避けたかった。
雪白の純粋な笑顔が、俺の醜い感情のせいで歪むなんて、考えただけで胸が張り裂けそうだった。
焦りと、どうしようもない無力感。
そして鈴木に対する沸き立つような怒りが、胸の奥で渦を巻いている。
拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む。
「……何が目的だ」
震えを抑え、低く絞り出した声が、かろうじて俺の怒りを物語っていた。
鈴木は、その反応を見て、さらに面白そうに口角を上げた。
「雪白と付き合ってるんすよね?だったら振ってくださいよ。もうお前に飽きたなりなんなりって」
その身勝手で、雪白の気持ちを全く顧みない要求に、俺は激しい怒りを覚えた。
こいつは、俺の、いや、俺たちの心を何だと思っているんだ。
それはあまりにも残酷で、俺は許すことができなかった。
「……するわけないだろ、そんな、雪白を傷つけるようなこと」
俺の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
雪白を傷つけるくらいなら、俺はどうなってもいい。
でもまた雪白になにかするつもりならそれは見過ごせない。
そう心の中で叫んでいた。
しかし鈴木はそれすら楽しんでいるようだった。
「とかいって、いずれは傷ぐらいつけますよね?? ケーキはフォークの捕食対象……なんすから」
その言葉に、俺の表情はさらに険しくなった。
奴は、あの神聖な瞬間を汚いものに貶めただけでなく、俺と雪白の関係性まで冒涜している。
この男の底知れない悪意に、心臓が締め付けられるような痛みを覚えた。
しかし、俺のことなど無視するように、鈴木は独り言のように続けた。
「前々から気に食わなかったんすよ、雪白のことも偉そうなあんたのことも。なんか全部が気に食わなくて」
鈴木の本音が、ぽろりと漏れ出た。
俺は、その純粋で、何の躊躇もない悪意を前に呆然と立ち尽くした。
理不尽で、ただただ気持ちの悪い、この男の悪意。
「でも〜、もし別れるって言ってくれるなら、この写真は消してあげるし、雪白のこといじめんのもこれで終わりにしてあげるっすよ?」
まるで救いの手のように差し出されたその条件は、あまりにも残酷な取引だった。
俺が雪白から離れれば、こいつは雪白に酷いことをすることはなくなる。
愛する人を守るために、俺は悪魔に魂を売らなければならないのか。
歯を食いしばり、唇を噛み締めながら、俺は深い絶望に囚われていた。
だが、雪白を守るため、これ以外に道はないと悟った。
俺は、全身の血が凍りつくのを感じながら、ただ頷くしかなかった。
(できるだけ、雪白が悲しまないようにするなら、嘘も方便か…多少強引だとしても、そうするしかないのか……)