「さっきの会話聞こえてたんだぞ」
「…うぅ」
俺は何も言い返せず、耳が赤くなったのを感じた。
◆◇◆◇
少し時間が経って、話題も仕事や趣味の話に変わり始めていた頃。
ビールの軽い酔いが回ってきたのか、思考がフワフワと夢見心地になってきた。
「…すみません、ちょっとお手洗い行ってきます」
そう言って、椅子から立ち上がりかけたとき。
「大丈夫か~?雪白~」
隣に座っていた田中が、心配そうに俺の腕を掴んだ。
どう見ても田中の方が顔が赤い。
「俺より田中の方が酔ってるでしょ、ほらもう離してっ」
俺は軽く笑いながら、彼のベタベタした手をそっと解いた。
ビール3杯くらいだったが、多少フラつきはするものの、足元はしっかりしているつもりだった。
個室の扉をそっと閉め、廊下へ出ると、店内は相変わらずの賑わいだった。
狭い通路を奥へ進むと、すぐさまトイレの看板が見えてきた。
個室に入って、ホッと一息つく。
壁に寄りかかると、アルコールで温まった体に、ひんやりと冷たいタイルが心地よかった。
(やっぱり尊さん来てくれて良かったなぁ……)
心の中でそう呟き、トイレで用を足すと水を流し、個室を後にする。
そして、男子トイレの扉を開けた、その瞬間だった。
通路の向こう側から、こちらへ歩いてくる人物が目に入り、俺の心臓はギシリと音を立てて凍りついた。
「……!」
思わず呼吸を止める
高そうなスーツに身を包み、ネクタイはピシッと締めている。
額の汗をハンカチで拭いながら、こちらに気づくなり、その人物は唇の端を持ち上げた。
「ん?お前……」
その声が鼓膜に触れた途端、全身の血液が逆流するような、氷点下の寒気が背骨を駆け上がった。
「お前まさか、雪白か…?そうだ、雪白だよな?!」
「っ!む、室井…さん……?」
自分でもわかるくらい、ひどく震えた声が出た。
嘘だろう、と思った。
せっかく、今の職場の人たちと楽しく飲んでいたというのに
まさかこんな場所で……前の職場の、あの、あの室井さんに会うなんて。
「なんだよ雪白。久しぶりだな~」
室井さんは相変わらず、人を品定めするかのように上から見下ろす視線を投げかけてくる。
脳裏に、嫌な記憶が走馬灯のようにフラッシュバックした。
会議で執拗に揚げ足を取られたプレゼン資料。
残業中に誰もいないオフィスで受けた無意味な説教。
何度も俺の目の前で破られた、渾身の企画書。
ミスをした時には必ず大声で怒鳴ってきた、あの声。
「……ぉ、お、久しぶり、です」
喉がカラカラになっているのに気づいた。
さっきまでの心地よいビールの酔いが、嘘みたいに一瞬で引いていく。
胃のあたりがキュウと縮こまり、吐き気を催しそうになる。
「今はどこに勤めてるんだ?」
室井さんはニヤリと笑い、一歩、距離を詰めてきた。
その一歩で、俺の空間が侵食される感覚に陥る。
「え……と…」
どう答えればいいのかわからない。
でも、〝また〟沈黙を作れば、どんな鋭い言葉が飛んでくるか分からない。
俺は、室井さんの前では、いつもこうして思考が停止してしまうのだ。
(は、早く何か言わないと……っ)
沈黙が怖くて、次の言葉を探す。
しかし、舌がうまく回らない。
「ここらへんの会社に務めてるとは聞いてたが……まさか会えるとはな」
もう一歩、近付かれるだけで、物理的ではない圧迫感が倍増する。
(そうだ、この人は、こういう人間だった)
圧倒的な威圧感と、相手の弱みを握って楽しむ性質。
尊さんとは大違いだ……。
「……む、室井さん…は、仕事仲間との飲み会ですか?」
俺はなんとか話題を逸らそうと、室井さんの背後にあるグループの輪をちらりと見た。
明らかに部下と思われる人々が、恐縮した面持ちでこちらを見ていた。
「あぁ。そうだ、お前は1人か」
「いえっ……」
反射的に否定するが、その先の言葉が出ない。
(た、尊さんに助けを……いや、だめだ。前の会社でのこと、バレたら、みっともないって思われちゃうかも…っ)
尊さんに、俺がこんなにも無様な状態になるのを見られたくない。
室井さんの存在が、俺の意識を完全に奪い、思考をバラバラにしていく。
冷や汗が、背中を伝う感触だけが鮮明だった。
「まぁいい。どうせまた下っ端で使い潰されてるんだろう?」
「……」
否定したいのに、口が開かない。
「どうせ今も変わらず使えないやつなんだろうな、なんせ酒もろくにつげないもんなぁ、お前」
「…っ、違……」
頭のなかでは、警報が鳴り響いている。
「ふっ、まぁまた聞かせろよ」
室井さんは、俺の反応を見て満足したようにそう言うと、ニヤリと笑い、そのまま通り過ぎていった。
「っ……」
足音が遠ざかると同時に、俺の膝がガクガクと震え出した。まるで長時間正座していた後のようだ。
(な、何だったんだ……?今の……)
呼吸が乱れていることに気づいて、俺は必死に胸を押さえ、大きく息を吸い込む。
酔いなど完全に覚めていた。
ただ冷たい汗だけが、じわじわと額と背中を濡らしていた。
◇◆◇◆
足元がフワフワする。
まるで海の上に立っているかのように、平衡感覚が不安定だ。
必死でそれを保とうと踏み出す一歩が、廊下のタイルに不安定に響く。
(平常心……平常心……バレるな……)
そう念じながら、みんなの待っている部屋へ向かった。
中に入れば、にぎやかな喧騒と熱気が一気に俺の顔に押し寄せてきた。
「おー!戻ってきた!雪白まさか吐いてたんじゃねーだろうな~」
田中が陽気に声をかけてくる。
彼の顔は、さっきよりも赤く、明らかに酔いが回っている。
「あははっごめんごめん、ちょっと混んでただけだよ」
咄嗟についた嘘が、なぜか妙に明るく、そして不自然に響く。
(違う……もっと自然に……)
「あはは……」
苦笑いを貼り付けながら席に戻るが、視界の隅で尊さんの目が一瞬細くなったのを見逃さなかった。
「遅かったな、大丈夫か?」
尊さんの声には、微かな疑いが滲んでいる。
まるで、俺の心の内側を覗こうとしているかのような鋭さだった。
「だっ大丈夫です!」
俺は必死に笑顔を作った。
テーブルについた途端、冷えたビールグラスが、今の俺には妙に重く感じる。
指先が震えていないか確かめるように、グラスを強く握り直した。
尊さんの隣に座っているというのに
室井さんの残した恐怖の残滓が、俺の心からは消えてくれなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!