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その時の俺は、もう限界だった。
あの男と鉢合わせた時の不快な動悸と悪寒が、俺の理性をじりじりと焼き尽くしていく。
ふいに俺の目に入ったのは、壁際のテーブルに無造作に置かれた瓶ビールだった。
誰かが注文したものの、まだ手つかずで残っているらしい。
冷房の効いた部屋の中でも、瓶の表面には水滴がびっしりとつき、黄金色の液体は泡を吹いて、まるで魔法のようにキラキラと輝いて見える。
冷えたジョッキに注がれることなく、ただそこに放置されているその一本は、今の俺にとっては救いの神のように思えた。
喉の奥がカラカラに乾ききっている。
「……俺、もう一杯もらいます」
そう言って、自分の席の隅に半分以上残っていたグラスを乱暴に置いて、俺は迷いなく瓶ビールに手を伸ばした。
テーブルを挟んで向かいに座る田中や、他のメンバーが「おっ」と目を見開く気配を感じたが、気にしている余裕はない。
指先が微かに震えているのが分かる。
それは冷たい瓶に触れたからなのか、それとも自分の行動に興奮しているからなのか。
どちらでもいい。とにかく、何かを飲みたかった。
あの男――室井さんが残していった、全身にまとわりつくような不快な余韻を一滴残らず、アルコールで流し込んでしまいたかったのだ。
急いで近くの空きジョッキを掴む。
瓶の口をジョッキの縁に当てて、傾ける。
ドボドボと勢いよく注がれる音が、妙に大きく、この座敷に響き渡る。
皆、突然の俺の挙動に驚いているのだろう。
ただ一人、尊さんの鋭い視線だけが、俺の側頭部に突き刺さってくるのを感じた。
ゴクリ、と大きく一口飲み込んだビールは、いつもコンビニで買う冷え冷えのビールとは違って、苦味が強く、そして少しぬるかった。
それでも、喉を焼くような刺激が、体内の不純物を洗い流してくれるようで気持ちよくて、俺は一気に半分以上飲み干した。
胃の奥底から込み上げるような、強烈なカーボンの刺激に、思わず目を閉じて深く息を吐いた。
「雪白ってば急にペース早~大丈夫かよ~?」
右隣の席から田中が声をかけてくる。
その顔はまだ赤いままで、口調にもどこか笑いが含まれている。
俺の尋常じゃない飲みっぷりが面白くてたまらないといった風だ。
「大丈夫だって……あはは」
自分でも乾いた声で笑っているのに気づいた。
だが、それが心の底から楽しいから笑っているのか
それとも泣きたいのを誤魔化すための笑いなのか
自分自身にも分からなかった。
ただひたすらに、目の前にある液体を胃に流し込み続けたかった。
「お代わりっください!」
さらに追加されたビールをまた一口飲む。
今度はさっきよりも冷えていて、少し美味しく感じられた。
三杯目ともなると、さすがに少し視界が揺れてきた。
テーブルの上の小皿やグラスの輪郭が、わずかに滲んで見える。
心臓の鼓動がいつもより少しだけ速く、ドクドクと大きく脈打っているのも分かる。
しかし、トイレで室井さんと鉢合わせたときの
あのゾワゾワとした悪寒に比べれば、今の酩酊感は千倍マシだった。
この熱っぽさが、あの時の冷たさを上書きしてくれるなら、それでいい。
「って雪白、もうやめとけって」
田中が、少し引き気味に俺の腕を掴んだ。
その顔はもう笑ってはおらず、本気で心配しているようにも見える。
「だ~いじょうぶだってぇ……」
俺はヘラヘラと笑いながら、その手を軽く払いのける。
脳の中では、もう一本、あと一本くらい飲みたいという衝動が渦巻いていた。
酒が入れば、この胸に居座るモヤモヤした気持ちも全部吹き飛んでくれるんじゃないかと淡い期待を抱いてしまうのだ。
四杯目を注文しようと手を上げた、その時だった。
ポンと肩を叩かれた。
「雪白」
低くて落ち着いた、よく知っている声。
声のする左を振り向けば、尊さんがすぐそばにいて。
いつもの冷静な、すべてを見透かすような瞳が今日は少しだけ厳しさを帯びて見える。
その視線に、酔いが一瞬で覚めるような錯覚を覚えた。
「……っ」
その途端、急に涙腺が緩んだ。
ダメだとわかっていても、どうしようもなく止められない。
視界がじわじわと滲み、尊さんの顔の輪郭が曖昧になっていく。
「え?雪白どうした!?」
「主任が泣かした~?!」
周りの驚きの声が、まるで水面に広がる波紋のように広がっていく。
「人聞き悪い言い方はよせ」
尊さんの低い声が聞こえる。
酔った勢いで、こんな衆人環視の中で泣き出してしまった自分が信じられなくて、恥ずかしさと混乱で顔がどんどん熱くなる。
尊さんの服の袖をぎゅっと掴んだまま、俯いてしまう。
涙がポロポロと頬を伝って落ちていくのがわかる。
早く止めないと、止めないと羞恥心で死んでしまうと思うほどに、次から次へと溢れてくる。
頭の中で、トイレで室井さんと出会った時のことがフラッシュバックする。
あの冷たい眼差し。
『どうせまた下っ端で使い潰されてるんだろう?』
と吐き捨てられた言葉が、耳の奥で不吉な残響となって蘇る。
(もし……室井さんにそう言われたことが、本当だったら……?)
尊さんにとっての俺も……同じなのだろうか。
ただの都合のいい道具みたいな、使い捨ての存在なんじゃないかって……
そんなネガティブな思考が暴走していく。