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気づけば、私は家路を歩いていた。
化学室を出て今にいたるまでのことは、あまりよく覚えていない。
ただぼうっとして、なにも考えられないままでいて、身体が習慣づいた動きをしてくれて、ここまで来たという感じだった。
昼間は晴れていた天気は、今はどんより暗い曇空になっていた。
まるで私の心のよう。
なんて乙女くさいことを思ったところで、嘲笑する余裕もない頬に、ぽつりと冷たい雫が落ちてきた。
雨…。
雫はぱらぱらと振り落ち、あっという間に雨に変わって、嵐でも近いのか、ってくらいの激しさになった。
走って帰ろうかと思ったけど、すぐに断念して近くの家の軒先に避難した。
参ったなぁ、朝は晴れてたのに…。今朝、天気予報を見る余裕なんてなかったからなぁ…。
家までは、まだ距離がある。
けど空は重い雲に覆われて、ちっとも雨がやむ気配がない。
「…散々だな」
ため息まじりにつぶやいて、コンクリート壁によりかかった。
背中がひんやり冷たい。
濡れそぼる制服がべったりと肌にはりつく不快感が、さっきからじくじくと疼く胸のそれに似ている。
なんだかもう、泣きそうだった。
頭の中では、化学室での出来事がフラッシュバックのように繰り返されていた。
そして、仲川さんに告白した蒼の言葉も、ぐるぐるとまわっていた。
そこまで想われていたなんて知らなかった、っていうショックと、そこから、くすぶるように芽生える不可思議な熱…。
ふたつの感覚が、私の心を追い詰めている。
もう、どうすればいいのか、わからない。
急に知らない世界に連れ去られてしまった。蒼のあの強引な手で…。
明姫奈にさえ突き離されてしまって…もう途方に暮れるしかなかった。
唯一、解かることと言えば、それだけ自分が子供だったってことくらい。
しっかりしてる、とか大人びている、とか言われたって、人を好きになったことのない私は、蒼や明姫奈と比べたら、結局はなんにも知らない子供と変わりないんだ。
今の私には、ふたりが…ううん、恋をして、誰かを思って一生懸命になっている人たちが、違う世界の人みたいに思える…。
みんな…私を置いていかないでよ…。
私…独りぼっちだよ…。
その時だった。
空が一瞬光った。
かと思うと、
ゴォオオン!!
「きゃっ!」
ものすごい音が轟いて、思わず私はしゃがみこんだ。
雷だ…!
暗い曇天に、再び光が瞬いた。
遅れて、また怒るように轟音が響き渡る。
やだ…。
嫌な既視感を覚えて、胸がざわつく。
しゃがみこんだまま、恐る恐る見上げた私の目に映ったのは…あの日―――雷がトラウマになってしまった日と瓜二つの光景だった。
このままじゃ…あの日みたいに動けなくなってしまう…。
私はスコールと化している雨の中に飛び出した。
そして息を切らしながら、ひたすら家路を走った。
※
小さい頃。
初めてから数えて、三回目のおつかいに行った時のことだった。
いつもより少し遠くのお店に行ってきて、と頼まれ意気揚々と出たら、道に迷ってしまった。
歩いても歩いても、行きつくのは知らない世界。
その時の私は、少しでも仕事や家事に追われている美保ちゃんの助けになりたいと、幼いなりに懸命だった。
だから、不安に覆いつくされながらも、どうにかたどり着こうと気丈を装って、ひたすらに歩いていた。
けれども、小さな胸には恐怖が溢れかえっていた。
もう二度と美保ちゃんに会えないんじゃないか…。
このまま、知らない世界を独りで永遠にさまようんじゃないか…。
そう考えては、泣きそうになるのを必死に堪えていた。
やがて、そんな私を追い詰めるように、空がどんよりと曇り始めた。
雨が降りしきって。
そして、轟いた雷。
幼い私には、それが初めての雷だった。
空気が震えるほどの轟音。
まるで『おまえはずっと独りぼっちでいろ』と宣告するみたいに鳴り轟くそれに、不安と恐怖にもろくなっていた私の心は、あっという間に打ちのめされてしまい、
すっかりすくみ上って、建物の軒下にしゃがみこんだまま、泣き崩れてしまった…。
幸い、通りすがりの大人に助けてもらえて、慌てて捜しにやってきた美保ちゃんとすぐ会えたけど。
その日の恐怖は、トラウマとなって心に消えない傷を作った。
雷の容赦ない轟音を聞くと、理由もなく不安が押し寄せてきて、涙が込み上げてきてしまう。
途方も無さに打ちのめされて、息が止まったかのように身動きができなくなってしまうんだ…。
それでも幾分か成長した私は、息せき切りながら、玄関にまで駆け込むことができた。
ほっと一息つくけれど、制服はびしゃびしゃ、髪もべちゃべちゃだった。
ひたひたになった靴下で廊下を歩いた。
家には当然誰もいなかった。いつも通り、しんとした廊下が私を迎える。
それにしても…天気のせいかもしれないけど…こんなに暗かったかな…。
私は暗い廊下の中で小さく笑みを浮かべた。
おかしな話。
独りで家に帰るのは当たり前のことだったのに、なにを今更寂しいなんて思うんだろう…。
ゴォオオン!!
急に家の中にいても驚くような轟音が聞こえて、私はその場にしゃがみこんだ。
美保ちゃん…
お母さん…!
スマホにすがると、美保ちゃんからラインが届いていた。
『昨晩無事出張先のホテルに着きました』
『今日からこちらでお仕事してます』
『そっちは天気崩れるみたいだけど、大丈夫?』
『いつも急で本当にごめんね。でも蓮の将来のためにも、美保ちゃん、出世目指して頑張るからね!』
最近お気に入りって言ってたブタさんのスタンプを交えた、美保ちゃんらしい明るいメッセージ…。
気づけば、私は涙をこぼしていた。