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「はぁ……はぁ――」
亜美は建物の死角へと身を隠していた。
高鳴る心音、動悸が激しい。
気を落ち着かせ、もう一度そっと角から慎重に覗き込んでみる。これでは只の不審人物だ。
「取材? 一体何の……」
「ふふ。それは内緒です。女の子同士には色々と秘密があるんですよ」
「それは失礼。ふふ」
一瞬どきりとしたが二人はそれ以上は触れず、再び世間話に興じていた。
葵の本当に朗らかな表情。それは意外だったが、何より彼女と語り合う人物。
何かしらの医者である事は、一見して分かる。
眉目秀麗――そんな表現がこれ程までにしっくりくる医者、というよりそれ依然の問題として、これ程目を惹く男性を亜美は見た事がなかった。
それは葵でなくても、女性なら誰でも見惚れてしまう程の。
亜美はそんな気恥ずかしさから、思わず身を隠してしまった――訳ではない。
“嘘でしょ? あの人……”
一瞬で本能が警告したのだ。それは身の毛もよだつ、危機感と云った類いの。
“間違いない……あれは――”
つい数日前の事。彼女にとって、未だにそれが夢か現実か区別が付かない出来事があった。
深夜の痕跡無き殺人――。勿論其処で殺人が起きたという、世間的な事実報道は無い。
だが確かに見た。その銀色の、非現実な現場を。
亜美は再度重ね合わせるように確認。
だが葵と談笑する彼の姿は、それとは似ても似つかない。
当然、髪の色も瞳の色も違う。だが間違いないと。
何故亜美はそう思ったのか。根拠は全く無い――が。
それは勘――第六感。
あの時感じた悪寒を、彼から如実に感じたからに他ならない。
――でも殺人者と思わしき者が何故、堂々と医者の姿をしているのか。そして葵との関連性は?
注意深く観察を続けるが、どう見ても二人は医者と患者の間柄だ。かなり親密な度合いにあったとしても、何らおかしい風には見えない。
「――また先生の所に遊びに行ってもいいですか?」
「何時でもいらしてくださいね。ジュウベエもあの子も喜ぶから」
そう言って白衣の男は、葵の頭を撫でるように優しく掌を置いた。
「えへへ~。でも悠莉ちゃん嫉妬深いから気をつけないと、ですね」
途端に葵は表情を綻ばせていた。あれだけ物憂げだった彼女が、明らかに心を開いている人物。
「そんな事は……あるかも!」
「やっぱり~」
自然で屈託のない表情を見せるその振る舞い。どう見ても不審な所は無い、裏を感じられない。
“勘違い? じゃあ……感じたあの悪寒は?”
腑に落ちない何かを感じながらも、亜美は二人から目が離せなかった。
――そしてふと思った。狂座と関わりを持った葵。そして彼女と密接な関係にあると思われる彼。
幾ら何でも考え過ぎかもしれない。
だがもし――
「それじゃ先生。また今度ですね~」
「気をつけてね」
どうやら二人の雑談は終わったようだ。葵は名残惜しそうに手を振りながら、白衣の彼の下から離れていった。
ひとしきり彼女を見送った後、彼もまた颯爽と歩み出す。勤め先に戻るのだろう。
遠ざかっていくその姿。
「…………」
それが何なのかは分からない。ジャーナリストとしての性なのか。
それとも己の勘――か。
何時の間にか亜美は、気付かれないよう細心の注意と距離を払いながら、その背の後を追っていたのだった。
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――追い続けていた。あくまで自然に、さりげなく。
気付かれる事はない。二十メートル以上も距離が離れている上、細心の注意を怠らないのだから。
だが亜美はこの追跡が、予想以上に困難な事を思い知らされる事となった。
途中までは群生の賑やかな喧騒に紛れていたのだが、段々と人気の少ない閑静な住宅街の方へと。
こうなると自然を装った追跡が困難を極めた。
たださえ地形的にも状況的にも不自然な装いになる上、目的となる彼の歩調がさりげないまでに緩やかながらも、少しでも油断すると即座に見失いかねない程の体感速度域。
“何でただ歩いているだけなのに、こんなに速いの!?”
最早気のせいではなく、明らかに速い。
今や亜美はほとんど全力疾走にも近い状況の中、やはり彼が普通ではない事を実感する。それは確信にも近い。
何より殺人者と思わしき人物を追うという、精神的重圧も加味され、既に息も絶え絶えだった。
それにしても――
「はぁ……はぁはぁ――」
一体何時まで――何処まで進むのだろうか。
追跡を開始してからどれ程経過したのかは分からない。
少々お使いに出向く距離にしては、余りに長過ぎると体感していた。
先程まで澄み渡っていた青空の雲が、夕陽に染まる茜雲に変わりつつあるのがまた――。
「まっ……まさか?」
ここでふと気付く。彼を追跡していたつもりが、実は最初から尾行に気付かれており、寧ろ自分が誘い込まれているのではないかと。
このまま陽が落ちて人気の無い路地裏にでも誘い込まれたのなら、逃げ道は何処にも無い。
“やはり気付かれていた”
あの夜の悪夢のような出来事を思い出し、今更ながら亜美は後悔の念に苛まされた。
追跡していたつもりが、逆に自分が誘導されていた事に――。
勿論、考え過ぎかもしれない。
だが彼の不自然に“見える”行動に、最早亜美に冷静な判断は下せないでいた。
――どうするべきか? 今ならまだ間に合うかもしれない。
それはこのまま追跡を諦めるという選択。
もう一つがこのまま追跡を続行するという選択だ。
彼女が選んだのは――
「…………っ」
彼を変わらず追跡するという選択。
このままでは本当に、何か事件とは違う得体の知れない事に巻き込まれるかもしれない。本当に消されるかもしれない。
だがそれは亜美にとって、狂座を追うと決めた時から覚悟していた事。
殺人代行とされる代物なのだ。現実味がある分、他のあやふやな呪い系都市伝説を追うより、その危険度は密接な死に直結。
事実、何人ものジャーナリストが狂座を調べ、そして失踪した。
国が関わっているなら、知り過ぎた者への“口封じ”はある意味当然と。
そして例え自分が同じ末路を辿る事となっても――
“私にはもう何も捨てるものはないから”
亜美は意を決して、遠ざかっていくその背を追った。
――も束の間、不意に男が歩みを止める。
気付かれた――と亜美は慌てて物陰に身を隠すが、もう完全に彼女の方が不審人物だ。
亜美は息を押し殺す中、心音が高鳴っていくのを実感。此所へ来るのだろうか。
だが耳を澄ませても足音がこちらに近付く素振りがない事に、亜美は恐る恐る身を乗り出して確認してみた。
――何の事はない。どうやら此処が彼の終着点。
白衣の男は小綺麗な白い建物の中へと、その姿を消していった。
亜美もゆっくりと、男が入っていった建物の前まで歩み立つ。
“如月……動物病院?”
掛けてある看板が目に入り、医者は医者でも彼が獣医の方だった事に、亜美は驚きを隠せなかった。
こんな外れの閑静な住宅街。其所の獣医を営む者が殺人者。
よくよく考えてみても、これ程状況のミスマッチは無い。
亜美は暫し、呆気に取られて立ち竦んでいた。
だが何時までも突っ立っている訳にはいかない。此処まで追ってきた意味がない。
あくまで自然体を装い、取材の一環で色々と探していた――と称せば何もおかしい所は無い。
そう、これは偶々――。
何時の間にか玄関前まで来ていた亜美は、表情に出ないよう気を落ち着かせ、ゆっくりと手を伸ばしドアノブを引いた。
その先に在るのは真実か、それとも――。