テラーノベル
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古い美術館には、夜になると絵が一枚増える——そんな噂があった。
舞台は、東京の片隅にある私立美術館。目玉は、十九世紀の無名画家・雨宮白蘭が描いたという一枚、《静寂の肖像》。少女がこちらを見つめるだけの、地味な絵だ。だが、その目だけが異様に生々しく、まるで今にも瞬きをしそうだと評判だった。
学芸員の真理子は、その絵の管理を任されていた。
ある晩、閉館後の巡回中に、彼女は違和感を覚える。
——少女の口元が、わずかに緩んでいる。
「そんなはずない……」
昼間に見たときは、無表情だった。気のせいだと思いながらも、真理子は監視カメラの映像を確認する。だが、映像には何も映っていない。絵は、ただの絵のままだ。
翌朝、清掃員が悲鳴を上げた。
《静寂の肖像》の前に、見知らぬ小さな靴が揃えて置かれていたのだ。泥だらけで、まだ湿っている。館内に侵入の形跡はない。防犯システムも正常。警察は悪質ないたずらと判断した。
その夜、真理子はひとりで絵の前に立った。
「あなた、誰なの」
問いかけた瞬間、背後でぱたん、と何かが倒れる音がした。振り返ると、廊下の先に、もう一枚、見覚えのない絵が掛かっている。
それは、美術館のロビーを描いた絵だった。
そして、そこに立つ自分の姿が、はっきりと描かれている。
——今の、私。
絵の中の真理子は、こちらを向いていない。代わりに、《静寂の肖像》の少女と向き合っている。そして、少女の手が、キャンバスの縁を越えて、絵の外へ伸びていた。
真理子の背後で、かさり、と布が擦れる音がする。
振り向く勇気が出ない。
代わりに、目の前の《静寂の肖像》を見る。少女の腕が、確かに伸びている。キャンバスの表面が、水面のように揺れている。
「やめて……」
その瞬間、世界が裏返った。
真理子は、冷たい石の床に膝をついていた。だがそこは、美術館の中ではない。薄暗い部屋。壁一面に、額縁、額縁、額縁。
すべての絵の中に、人がいる。
泣き叫ぶ男。
眠ったまま動かない子ども。
そして、驚愕の表情で固まった、学芸員の制服姿の女。
壁の中央には、見慣れたロビーの絵が掛かっている。
その中で、少女が微笑んでいる。
現実の美術館では、翌朝、一本の絵が増えていた。
タイトルは、《最後の巡回》。
そこには、薄暗い展示室で振り向こうとする真理子の姿が、精緻に描き込まれている。
唇はわずかに開き、目は恐怖に見開かれている。
そしてその背後、キャンバスの縁から、少女の白い指先が、今にも彼女の肩に触れようとしていた。
By主
ムズい💦
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