インヴィディアの記憶の始まり、自我を理解した幼児期から、そのイメージは始まっていた……
進駐軍の兵士として、その役目を終えた青い目をした男の父親は、一切、母子を省(かえり)みる事無く、単身本国に待つ妻や子供達の元へ帰っていった。
取り残された母は尋常な精神を保つことも難しく、絶望の中、男を孤児院に預けると、それっきり消息を断ったのである。
世の中は大戦の荒廃から急速な回復を見せ、最早戦後は終わったと人々が口にし始めた頃、中学を卒業した男は世の中に放り出された。
小さな町工場で働き始めたが、貧しく厳しい仕事の毎日に疲れ果てた男は、偶然出会った地回りに付き纏(まと)い、やがて職を辞し程無く正式に杯(さかずき)を受け、政治結社の構成員となった。
自然組織内での出世を夢見た男であったが、生来の不器用さと運の無さが禍(わざわい)し、いつも食い詰めシノギの上納にも事欠く程であった。
納める物が収められなければ、組織の一員としてすら認められなくなってしまう。
そうなれば、今まで組織の名前を利用して行ってきた、悪行の被害者達の復讐から逃げ続けなければならない事は、学の無い男にも手に取るように分かっていた。
結局、自分と違って器用で商才もあった後輩、今や組織の幹部にも名を連ねるかつての弟分から、金を借り続ける事で立場を維持するしか出来なかった。
男には、世話になっている幹部の頼みを断る事など、最早不可能であった。
だから、幹部に望まれるままに、敵対する組織の事務所を襲撃する一団に参加したのだ、決して荒事(あらごと)が得意では無かったのに……
結果だけを見れば、襲撃は成功に終わった。
しかし、揚々と引き上げる仲間達と一緒に帰ろうとしていた男は、股間に鋭い痛みを感じて立ち止まる事となった。
見下ろした股間からは大量の出血があり、深手である事は医学に疎い(うとい)男にも分かったし、何より酷い激痛が事態の大きさを物語っていた。
痛みに跪いた(ひざまずいた)男の横では、気力を振り絞って一矢(いっし)報いた敵の一人が満足そうな顔で息を引き取っていた。
仲間達は深手を負った男をその場に残し慌てて逃げ帰っていった。
通報を受けて駆けつけた警官は男を確保して、警察病院で治療を施した。
医師達の努力と看護師達の献身的な看病によって、男は一命を取り留めたが、男性の機能は失われていた。
そして、体調が戻った男は、警察病院から検察の拘置所へ移り、昔馴染みの面会を受けた。
訪ねて来たのは男と同じ施設で育った女、男にとって妹の様な存在だった。
何度か訪ねて来た女の説得に押し切られる形で、男は婚姻届を書き、二人は結婚する事となる。
女は、男の住んでいた古ぼけた借家に居を移し、男の出所を待つと言ってくれたのである。
裁判の結果は当然の様に実刑、懲役八年が課せられた。
収監された刑務所で、男はその後の人生に大きく関わってくるある人物と出会った。
その人物は男のいた業界では有名な武闘派の仕事師、平たく言えば『ヒットマン』として、様々な組織を転々としていた。
従前からこの人物の事を聞き知っていた男は、積極的に話し掛け、やがて互いに心を開き合い歳の離れた友人となる。
互いの血を啜(すす)りあうことこそ無かった物の、男は心の中で実の兄のように慕っていたのである。
出会いから数年、兄と慕う人物は出所し、男は孤独を感じながらも四年の月日を淋しさと共に過ごす事になった。
唯一の救いは、かの兄と慕った人物に、懐かしい借家で、自分の帰りを待ち続ける嫁さんを訪ねて欲しいと願い、快諾された事だけであった。
そして、四年の月日を耐え切った男は、無事満期を迎えたのであった。
出迎える人は、 皆無であった……
組織がドジな男を見限るであろう事は、想像に難くなかった、それは良い、只、一途にこんな自分を愛してくれた嫁さん、彼女がこの場にいない事に男は違和感を感じていた。
不審を感じながらも、八年振りに帰ってきた我が家、月額二万八千円の借家は昔と同じ姿で、少しだけ古ぼけている様に見えた。
ドアを明け、迎えた懐かしい子供の頃から当たり前の様に見知った顔を伏せて、彼女、男の嫁さんは床に手をついていた……
『お勤めご苦労様でした』そんな定型文を口にする事も無く、彼女が口にしたのは、この数年の間、己が享受した不貞と、信じ切っていたあの『兄貴』の裏切りに終始していた。
男は彼女に聞いた。
「それは…… お前の望みだったのか?」
と……
彼女は答えた。
「ううん、違う、私は最初嫌だと思った! それなのに…… あの男(ひと)が私を…… 全てを塗り替えてしまったのよ…… ごめんなさい、あなた……」
その言葉を聞いた瞬間、男は激しい怒りに包まれたのである、最初? 最初は嫌だった、だと?
その後は? いいや、もう、どうでも良い、考えたくは無かった……
そうして、男は決めたのだ、決めてしまったのであった、自ら兄と慕い、目標と定めたあの人物を…… 殺すことを!
それからは、ハッキリ覚えていない、記憶にある事と言えば、頭に血が上って自分にとって大きい、大きすぎる存在だった、あの人物に切り掛かって行き、気付かぬ程の手際で体を真っ二つに切り伏せられた事。
男は彼女に問う、止めろと言ったにも拘(かかわ)らず、細腕にヤッパを握り締めた、アイツが兄貴に殺される姿を思い出しながら……
お前はそれで、そんな事で終わって良かったのか? と……
答えは無く、やがて、首だけになった男の意識は暗転するのであった。