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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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数日後、一花は形成外科の診察を受けるため、ひとりで病院へ向かっていた。
玄関を出る前、鏡の前で帽子を深く被り、マスクをつける。
左頬から顎にかけての傷はほとんど隠れた。けれど、首元まで広がった火傷をすべて覆うことはできない。
それでも、鏡の中から傷が見えなくなるだけで、少しだけ息がしやすくなった。
外へ出ると、街には火災が起きる前と変わらない日常が流れていた。
信号を待つ人。買い物袋を提げた親子。楽しそうに話しながら歩く学生たち。
以前なら何も気にせず、その中へ溶け込んで歩いていたはずなのに、今はすれ違う人の視線ひとつひとつが気になった。
向こうから来た女性と目が合った。
その視線が一瞬、自分の首元へ落ちたような気がして、一花の心臓が小さく跳ねる。
少し先では、二人組の女性が何かを話して笑っていた。
自分のことではない。そう分かっているはずなのに、急に居心地が悪くなってしまう。
(……気にしすぎだよね)
誰も、そんなに自分のことなど見ていない。
そう言い聞かせても、すれ違う足音が近づくたび、一花の指は無意識にマスクの端へ伸びていた。
「傷の治りは順調です」
頬から首元まで慎重に傷の状態を確認し終えた神崎は、手袋を外しながらそう告げた。
その言葉に一花はほっと息をついたものの、続いた注意を聞いてすぐに表情を引き締める。
「ただ、まだ皮膚がかなり敏感な時期です。できるだけ刺激を与えないようにしてください。それから、化粧ももうしばらく控えましょう」
「……化粧も、ですか?」
思わず聞き返していた。
傷がもう少し落ち着けば、せめて化粧で目立たなくできるのではないか。
完全に元の顔へ戻れなくても、隠すことくらいならできる。いつの間にか、そんな期待を抱いていたらしい。
「はい。今はまだ、化粧品が刺激になる可能性がありますから」
「そう、なんですね……」
また一つ逃げ道を塞がれたような気がして、一花は無意識にマスクの縁へ触れた。
「じゃあ、まだ……隠すこともできないんですね」
何気なく零したつもりだった。
けれど神崎はすぐには答えず、一花の表情を見つめた。
「マスクを使うこと自体は構いません。ただ、傷に直接擦れないよう気をつけてください」
「はい」
一花は頷いたものの、指はマスクから離れなかった。
「……外に出ると、気になっちゃって」
「何がですか?」
「人の目が」
口にした途端、そんなことを医師に話すのもおかしい気がして、一花は小さく笑った。
「本当に見られてるのかなんて分からないんです。でも、誰かと目が合うだけで……私の顔を見てるのかなって思っちゃって」
今朝もそうだった。
首元へ向けられた気がした視線が、病院へ着いた今も頭に残っている。
「前は、そんなこと考えたこともなかったのに」
神崎は何も言わなかった。
ほんの一瞬だけ、その視線が一花ではない誰かを見ているように遠くなる。
「……無理に慣れようとしなくて大丈夫です」
一花が顔を上げると、神崎はいつもの落ち着いた表情へ戻っていた。
「まだ火災からそれほど時間が経っていません。身体の傷だけでなく、気持ちが追いつくまでにも時間はかかります」
「……はい」
淡々とした声音なのに、その言葉は不思議と胸に残った。
一花は小さく息を吐くと、ふと先日の俊介とのやり取りを思い出した。
「先生」
「はい」
「水野翼って……まだ警察にいるんですよね?」
神崎の眉がわずかに動いた。
「水野翼……放火した犯人ですね」
「はい」
一花は一度唇を結んでから、意を決して告げた。
「私、あの人に会いたいんです」
「本人に、ですか?」
「はい」
「……どうして?」
一花は膝の上へ視線を落とした。
会えば、またあの夜を思い出すかもしれない。目の前に座っている男が母を奪ったのだと思えば、自分が何をするかも分からない。
怖くないわけではなかった。
それでも、何も知らないまま生きていくことの方が、一花にはもっと怖かった。
「聞きたいことがあるんです」
ゆっくりと言葉を探す。
「どうして、私だったのか。どうして家に火をつけたのか」
「それから……どうして自分が私を助けたなんて思ってるのか」
神崎は口を挟まず、一花の言葉を待っている。
「俊介には、もう忘れた方がいいって言われました」
思い出すと、今でも胸が痛んだ。
夫と同じ方向を向けなくなっている。そのことも怖かった。
「でも、私にはできなくて」
一花は膝の上で指を強く組んだ。
「何も分からないままじゃ、前に進めないんです」
その瞬間、神崎の手がほんのわずかに止まった。
一花は気づかないまま続ける。
「このままだと、ずっと考えちゃいそうで……」
「私が何か悪かったのかなって」
「あなたが悪いわけではありません」
予想していたよりも強い声が返ってきた。
一花が驚いて顔を上げると、神崎も自分の声音に気づいたのか、一度口を閉ざした。
「先生……?」
「少なくとも」
いつもの落ち着きを取り戻した声で、神崎が続ける。
「被害に遭ったあなたが、自分を責める必要はありません」
「……ありがとうございます」
ほんの一瞬だけ、神崎の表情に浮かんだものが何だったのか、一花には分からなかった。
「水野と面会できるかどうかは、私には判断できません。担当の刑事に確認する必要があります」
「やっぱり、そうですよね」
「捜査の状況によっては、認められない可能性もあります」
「それでも……聞いてみます」
話を終え、一花がバッグへ手を伸ばしたところで、神崎が静かに尋ねた。
「一人で行くつもりですか?」
「……そのつもりですけど」
「それはやめてください」
間を置かずに返された言葉に、一花は目を瞬いた。
「え?」
「相手はあなたにつきまとった末、自宅へ火を放った人間です。たとえガラス越しでも、実際に顔を合わせれば、あなたにどんな精神的な負担がかかるか分かりません」
「でも……」
「どうしても会うというのなら」
神崎はそこで一度言葉を切った。
何かを迷うような間のあと、一花をまっすぐに見る。
「私も同行します」
コメント
1件
うわあ……今回もめっちゃ心に沁みたわ。 一花の「人の目が気になる」って感覚、すごくリアルで読んでてこっちまで息苦しくなった。マスクの端に触れる指の動きとか、細かい描写が刺さる。 それで最後の「私も同行します」、神崎先生が急にプロの枠超えて人間味見せてきたの、めっちゃグッときたよ……何かこの先生にも事情ありそうで気になる。続き待ってる🔥