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看護師に対して、私が珍しく「楓ちゃん」と名前で呼び、「亜紀先生」と親しげに接してくれるこの女性。
彼女の名前は、浅倉楓。
オペ室で勤務する六年目の看護師だ。確か、年齢は二十七歳。
今年の三月まで循環器内科病棟で勤務していたが、この春の人事異動で畑違いのオペ室へ配属された。
医師と看護師。
年齢は違えど同じ年に配属となった私達は、いつの間にか自然と仲良くなっていた。
傍から見れば「仕事がバリバリとできるナース」ではないのかもしれない。
けれど、道端にひっそりと咲く、小さくても力強い真っ白な花のように。
しとやかで可愛らしい彼女の雰囲気に、私は以前から親しみを感じている。
「大丈夫。これでも家ではのんびりしてるから。楓ちゃんもオペ室は大変でしょ? 機械の名前を覚えたり、手順を覚えたり」
彼女の細い腕に残る雨の雫を見つめ、目を細めた。
「そうですね。半年経って、やっと外科のオペに一通り付けるようになりました。……まだまだ先は長いです」
私の視線に気づいたのか、濡れた腕を拭きながら苦笑いを浮かべる。
「オペ室って病棟とは緊張感が全然違うしね」
「はい。先生達も怖いし。……亜紀先生のご主人様も、いつも怖い顔してますよ」
楓ちゃんは私の反応を窺うように、口元で含み笑いを浮かべた。
「あ、やっぱり? 大体想像はつくわ。外科って……楓ちゃん、心臓血管外科のオペにも付いてるの?」
「いえいえ! まさか! 人工心肺を使うオペなんて、まだまだ先の話です。ご主人様……宮坂先生のオペは、時々勉強のために見学してるので。
私も早く、凄腕ドクター宮坂先生のオペに付けるくらい成長したいです」
楓ちゃんはガッツポーズをして見せたあと、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「……凄腕ドクターね。なら、その怖い凄腕ドクターに『楓ちゃんをよろしく』って言っておくよ」
「えっ!? そ、それは結構です! 余計に厳しくなりそうで怖いです」
楓ちゃんは大袈裟なほど慌て、傘を持つ手までぶんぶんと横に振った。
「……あ、そうなの?」
「はい。亜紀先生のお気持ちは嬉しいんですけど……。私の名前を出しても、宮坂先生は私のことなんて知らないかもしれませんから」
彼女は目を細め、穏やかに微笑んだ。
「そうかなぁ。ずっと前に、あの人の前で楓ちゃんの名前を出したことがある気がするから……名前くらいは聞き覚えがあると思うんだけど」
「本当に、亜紀先生のお気持ちだけで十分です。ありがとうございます。あっ、そろそろ私、行きますね。……亜紀先生は今からご帰宅ですか?」
「うん。ちょっと寄るところがあるから、そのあと、のんびり買い物して帰ろうかな。宮坂先生は東京の学会で帰りが遅いし」
半乾きの傘を床でコンコンと軽く鳴らしながら、苦笑いを浮かべる。
「……そうですか。雨足が強いので、気をつけてくださいね」
「うん、ありがとう。あっ、そうだ。今度、久しぶりに一緒に飲もうよ。楓ちゃんの彼の話も、久しぶりに聞きたいな。ユニークで自由奔放なストリートミュージシャンの彼の話」
「……彼の話ですか」
楓ちゃんは少し間を置き、ぽつりと言葉をこぼした。
一瞬見せた戸惑いの表情に、私はハッとする。
「えっ……あ、オペ室のエピソードとか色々さ。病棟時代の懐かしい話でもいいじゃない?」
慌てて取り繕うように言葉を続けた。
「……あ、はい。自由奔放な彼の話ですね。相変わらずな感じで、振り回されながらも仲良くやってます」
「相変わらずね。そっか、良かった。……あ、振り回されてるのに、『良かった』でいいのかな?」
ほっと胸を撫で下ろしながら微笑む。
楓ちゃんは私の焦りを見透かしたように、クスッと小さく笑った。
「それじゃあ、統計の打ち込み頑張ってね。忙しいのに引き止めちゃって、ごめんね」
「いえ。亜紀先生に会えて嬉しかったです。先生とまた飲みに行ける日を、楽しみにしています」
笑顔で会釈をする彼女。
「うん、またね」
私は軽く手を振り、笑みを返した。
***
自動ドアを抜けると、降りしきる雨の音が大きく耳に飛び込んできた。
「……」
深いため息をつきながら、空を見上げる。
「昨日は暗闇で、今日は大雨……。捜索は難航ですな。無事に指輪が見つかったら、お祝いにケーキでも買って、一人で食べようか」
アスファルトにできた水たまりへ視線を落とし、自嘲気味に小さく呟いた。
お気に入りのピンク色の傘を広げ、肩に掛けたバッグを濡らさないよう体へ引き寄せる。
ビニールを叩く雨音が、頭上で絶え間なく響く。
シンプルな黒のパンプスは、一歩踏み出すたびにパシャパシャと水しぶきを上げた。
雨だし、急がないと暗くなっちゃうかな……。
腕時計に視線を落とし、私は地下鉄へ向かう足を少し速めた。
コメント
1件
いや〜、亜紀先生と楓ちゃんの距離感、すごく丁寧に描かれててほっこりしたわ。お互いの仕事をリスペクトし合ってる空気が伝わってくるし、楓ちゃんの恋人の話のところで一瞬見せたギクシャクが気になる…。雨の日の憂鬱な感じと、指輪探しのぼやきが妙にリアルで、続きが気になる回だったわ!