彼が振り向くより先に、私はレイを背中から抱きしめた。
レイの温度。
レイの香り。
雨で濡れているからか、余計にそれを感じて、胸が痛いほど締め付けられた。
「……来ないで。電車なんて来ないで……!
雨が強くなって、風だってもっと強くなって、飛行機なんて飛ばなきゃいいのに。
そうすればレイは日本にいてくれるし、離れ離れにならなくて済むのに」
言いながら、私はレイを抱く腕に力を込めた。
困らせたくなかった。
面倒なやつと思われたくなかった。
だから大丈夫というふりして、物分かりのいい私でいようとしたけど、やっぱり自分に嘘はつけない。
「嫌だよ、レイ……。行かないで」
レイは私の腕をそっとほどき、こちらを向く。
目が合うと、勝手に涙が溢れた。
レイは濡れた私の髪を撫で、向かい合う形で私を抱きしめる。
レイは一度も別れを口にしなかった。
だけどすぐ戻ってくるとか、L・Aに会いに来てとも言わなかった。
私にとって都合のいいことも、口先だけの約束もなくて、ただ黙って私を強く抱きしめる。
「レイ……」
お願いだから、このまま時間が止まればいいのに。
強く願った時、軽快な音が流れた。
迫るのは嘘みたいな現実。
電車の到着を知らせるアナウンスに、体が強張った。
……わかってる。
本当は子供の頃からわかってる。
手に入れられる幸せと、願うしかない望みは別だってこと。
「……なんて。
こんなこと言ったら困るよね。……ごめんね」
レイの胸に手を置いて、目を落としたまま言う。
声が震えた。
電車が真横を通り、轟音と共に風が吹き付ける。
レイは回した腕をほどき、自分の腕時計を外した。
私の左手を取り、ベルトを通す。
驚いて顔をあげると、穏やかな目とぶつかった。
「澪が持ってて」
私に大きすぎる時計は、レイの温もりがする。
視界の端で、電車がゆっくりになった。
頭がついていかない。
頷いたけど、目の前が濁って、息もうまく繋げなかった。
電車が停止する寸前、私は大きく顔をあげた。
さよならは、言うのと言われるのとどちらが辛いんだろう。
言いたくない。
けどもう……お別れの時間だ。
「……レイ、大好きだよ。
……元気でね。さよな―――」
振り絞った言葉は、途中で声を失った。
レイの唇が私に重なり、瞼から涙が一筋落ちる。
「またね、澪」
クリアになった瞳の中で、レイが柔らかく微笑んだ。
真後ろでドアが開き、彼が電車に乗り込む。
行かないでと心が叫ぶけど、もう声にはならなかった。
私は涙を拭き、笑って腕時計をレイに見えるよう向ける。
ガラス越しのレイも、同じように笑った。
電車が動き出した。
最初はゆっくり、だんだん速く。
私の手の届かない場所へ、関われない世界へ、レイを連れ去っていく。
姿はすぐに見えなくなり、最終車両が通り過ぎると、腕時計を見せていた手で顔を覆った。
「……レイ……」
押しとどめていた涙が溢れ出した。
レイ。
レイ。
こんな時に限って、いろんなことを思い出す。
ここで初めて会った時のこと。
冷蔵庫を開ける時、少し屈む姿。
「澪」と呼ぶ日本語の響きや、廃ビルで一緒に見上げた夜空。
電車が去った後のホームは、闇に風と雨の音が混じる。
ゆっくり手を外すと、真っ暗な線路の向こうに、青い信号がぼやけて見えた。
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