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須古星 れい
麗太
柘榴とAI

n217(エヌ・ニイナ)
SCENE 13 リービング・ザ・ツリー
夜に向かう色が、
幹の裂け目へ先に沈んでいた。
倒れた樹は
地面に伏したまま、
それでもまだ
樹の形をやめていなかった。
枝は生きたまま葉を支え、
根は露出したまま湿りを抱え、
幹の奥には
切られた熱の残りが
ゆっくりと薄くなっていく。
人間たちは
その周囲を歩いていた。
歩くたび、
靴底が土を押す。
押された土は、
昼までの土と違う。
根の裏を見た土。
幹の内側を知った土。
失われた部分の重さだけ、
少し沈み方が違う。
作業員は
すでに次の工程の体で動いている。
器具を引き、
支持具を外し、
回収したものを
重い容器へ移す。
記録係は
携行端末の表示を睨み、
数字の列を閉じ、
また開き、
採取量と熱の減衰を並べ替えている。
人間だけが、
時々立ち止まった。
立ち止まるたび、
視線は露出した根へ落ちる。
次に、
倒れた幹の上へ移る。
さらに、
その上に残っている羽へ。
シエナがいる。
近すぎず、
遠すぎない位置。
倒れた枝の途中、
まだ空を向ける角度の残る場所に止まり、
こちらを見ている。
最初から最後まで、
それだけは変わらなかった。
人間は
回収容器の留め具を締めながら、
シエナの視線を
背中に受ける。
慣れたはずだった。
ここへ降りてから、
ずっと見られてきた。
最初は
ただの生きものだと思っていた。
次は
賢い群れだと思った。
そのあとで、
見られていたのは
こちらのほうだと知った。
いまはもう、
そのどれとも少し違う。
見られているというより、
覚えられている感じだった。
人間は
容器を持ち上げる。
重い。
露出した根から採られたものは、
数字の上では効率がよかった。
作業員が言っていた通り、
倒れたことで開いた層は
濃く、
深く、
人間の側にとっては
使いやすかった。
その使いやすさが、
人間の腕に重量として返る。
正しさには
いつも手応えがある。
だから困る。
両手にかかる重みが、
ここでやったことの結果として
あまりにも明瞭だった。
記録係が
容器の側面へ識別を打ち込む。
短い音。
短い振動。
それで、
樹の根の一部は
もう別の名前になる。
名前は簡素だ。
番号と記号の束。
そこに、
倒れた幹も、
失われた枝も、
見ていた羽も入らない。
人間は
その番号を見たあとで、
倒れた樹を見る。
同じものを指しているはずなのに、
まるで違う。
向こうはまだ
樹のままだ。
こちらではもう
資源の一部になっている。
その差が、
喉の奥に細く残る。
作業員が
二つ目の容器を押しながら言う。
「これで足りる」
記録係が画面を見てうなずく。
「予定線には乗る」
予定線。
その言い方の中に、
帰るための線も、
次へ行くための線も、
全部含まれている。
人間は
その線の外に、
倒れた樹の輪郭があることを知っている。
知っていても、
予定線のほうが先に進む。
作業員は
止まらない。
記録係も
止めない。
人間もまた、
結局は容器を持つ。
その手の動きだけで、
もう任務は続いている。
続けたくないという感覚は、
続いている体の前では弱い。
弱いのに、
消えない。
人間は
容器を運びながら
倒れた幹の横を通る。
裂けた繊維が見える。
折れた枝の根元が見える。
葉のあいだに、
まだ生きた色が残っている。
その色は、
切ったあとですぐには変わらない。
変わらないから、
失わせた実感だけが
あとから来る。
人間は足を止める。
容器が腿へ当たる。
重みが腕へ食い込む。
そのまま、
倒れた幹の上を
視線だけでたどる。
シエナは
少し先にいた。
人間が立ち止まると、
シエナも動かない。
それだけで、
また時間が一枚薄く伸びる。
記録係が後ろから言う。
「運べ」
人間は振り向かない。
「分かってる」
その返事は
最近ずっと、
そればかりだった。
分かってる。
分かってるけど。
分かってるから。
言葉の先が
どれも同じ場所へ落ちる。
記録係は
それ以上言わない。
もう、
責めても仕方がないことを
分かっているのだろう。
ここにいる全員が、
別々の重さで
同じことを分かっている。
人間はまた歩き出す。
降下機の近くに設けた仮置き場まで、
盛り上がった根のあいだを縫っていく。
来た時よりも道が狭く見える。
倒れた樹が一本あるだけで、
景色はこんなにも変わる。
同じ星。
同じ空気。
同じ土。
それなのに、
通る道の意味だけが
前と違う。
人間は容器を下ろす。
鉄属の底が板へ当たり、
短く硬い音がする。
その音に、
遠い枝の羽が少し動く。
シエナは動かない。
まだ見える位置にいる。
人間は
手の甲の汗を拭う。
汗に土が混ざる。
爪の間に残った湿りが
なかなか取れない。
洗えば落ちる。
だが、
いまはまだ落ちない。
落ちないものの多さが、
この星へ来てから
少しずつ増えている。
作業員が
容器の固定を終え、
残りの器具をまとめ始める。
撤収の動きは
採取の動きより速い。
必要なものだけを引き、
余計なものを残さない。
この場を去るための体の使い方に、
人間たちはよく慣れている。
それが今は
ひどく冷たく見えた。
記録係が
倒木域の最終撮影を始める。
幹の位置。
露出した根の断面。
回収後の残留熱。
器具の痕。
画面には
きれいに収まる。
そこには
羽の視線は入らない。
シエナの沈黙も入らない。
人間は
そのことを見て、
思わず口を開きかける。
撮れ、と言いたくなる。
見ていたものごと残せ、
と言いたくなる。
だが、
記録へ残したところで
何が変わるのか分からない。
変わらないと分かっているから、
言葉だけが喉の奥で止まる。
記録係が
一連の撮影を終える。
「終わり」
それは撮影の終わりであって、
ここで起きたことの終わりではない。
だが、
人間の側の工程としては
その一語で十分だった。
作業員が
最後の支持具を肩へ担ぐ。
「戻るぞ」
人間は
また倒れた樹を見る。
樹は残っている。
全部ではない。
もとの形ではない。
だが、
残っている。
失われた部分だけが、
空いた形として分かる。
枝の途中の欠け。
根元の露出。
幹の傾き。
葉の密度の偏り。
無くなったものは
見えないのではなく、
見えるかたちで残るのだと
人間はこの夕方で知る。
シエナは
その残り方の上に止まっている。
まるで、
失われた部分の縁を
身体で示すように。
人間は
低く息を吐き、
一歩だけ倒れた幹へ近づく。
作業員が気づく。
「おい」
人間は止まらない。
幹の裂け目へ手を伸ばす。
触れそうで、
触れない距離で止める。
熱はもう薄い。
それでも、
残っている。
その薄い熱が、
ここで起きたことを
最後まで言い逃れさせない。
人間は
そのままシエナを見る。
シエナも見る。
手を開く。
胸の高さ。
何も持たない手。
最初から何度もくり返した形。
シエナは、
長いあいだそれを見てから、
羽先をほんの少し下げる。
人間の喉が鳴る。
返ってきた。
完全には切れていない。
だが、
それは慰めではない。
許しでもない。
ただ、
そこに手があること、
ここに羽があること、
失われた樹のそばで
それを互いに見ていること。
その確認に近い。
人間は
ゆっくり手を下ろす。
シエナは
羽先を戻す。
それで終わる。
それ以上の形はない。
ここで残るのは、
もう通路ではなく痕跡だ。
作業員が
今度は強めに呼ぶ。
「戻れ」
人間は振り向く。
返事をする前に、
もう一度だけ樹を見る。
倒れた幹。
露出した根。
欠けた枝の影。
その上に残る羽。
全部が
まだそこにある。
消えていない。
消えていないから、
去ることのほうが
ずっと決定的に感じられる。
人間は歩き出す。
倒れた樹から離れる。
露出した根から離れる。
シエナの視線の中心から離れる。
だが、
背中に残るものは消えない。
仮置き場を越え、
器具のまとめを手伝い、
降下機へ積み込みを始める。
作業はよく知った手順だ。
固定帯を締める。
番号を合わせる。
残量を確認する。
次の積載位置を空ける。
手は迷わない。
迷わない手の中で、
心だけが
倒れた樹の前に残る。
記録係が
横で淡々と言う。
「これで予定は戻る」
人間はうなずかない。
作業員が
留め具を締めながら
短く返す。
「戻した」
その言い方に、
人間は妙な違和感を覚える。
戻ったのは
こちらの予定だけだ。
向こうの樹は戻らない。
失われた部分は戻らない。
それなのに、
人の口は
こういう時でも
戻るという語を使う。
その便利さが、
いまは痛い。
積み込みが終わるころ、
空はかなり低い色になっていた。
高い枝の輪郭が
前より柔らかく溶けていく。
倒れた樹の先に、
シエナはまだいる。
人間は
積み込み用の板の上から
それを見つける。
見つけられてしまう。
どれだけ離れても、
あの羽色だけは
見分けがつく。
緑の濃さ。
黄緑の返り。
羽先の細い紫。
その配色が、
この星のどの葉よりも
人間の目に残っている。
記録係が
人間の視線に気づく。
「まだ見てるのか」
人間は
短く答える。
「見えるから」
記録係は
それ以上何も言わない。
責めない。
慰めない。
その沈黙が、
今日はありがたかった。
作業員が
最後の確認を終える。
「上がる」
それで、
本当に任務は次へ進む。
人間は
板の端から降りる前に、
もう一度だけ
倒れた樹を見る。
樹は残っている。
もとのようには立たない。
それでも、
完全には消えていない。
失われた部分だけが
空いた場所として残り、
そこから先の風の通り方さえ
変えてしまっている。
人間は
その空いた形を見て、
はじめて分かる。
失われるとは、
消えることではない。
残るものの中に
欠けとして居続けることだ。
シエナは
その欠けの近くにいる。
見送るためではない。
引き止めるためでもない。
ただ、
そこが欠けた場所だと
最後まで示すみたいに。
人間は
地面へ降り、
降下機へ向かう。
歩幅はいつもと同じはずなのに、
今日はどこかぎこちない。
土が靴へつく。
乾きかけた湿りが底へ残る。
一歩ごとに
ここで踏んだものを持ち出している感じがする。
降下機の入口で、
人間は足を止める。
作業員が先に入り、
記録係が端末を抱えて続く。
人間だけが
最後に残る。
振り返る。
倒れた樹が見える。
高い枝の群れが見える。
倒れた幹の近くに
シエナも見える。
遠い。
遠いのに、
目は合っている気がした。
人間は
最後に一度だけ
掌を上げる。
手を振るのではない。
ただ、
空の手を見せる。
シエナは
動かない。
羽先も、
首も、
ほとんど動かない。
だが、
見ている。
見送らない。
責めない。
許さない。
それでも見ている。
その見られ方だけが、
人間の胸へ深く残る。
人間は
手を下ろす。
入口の縁へ手をかける。
鉄属の感触が
ひどくよそよそしい。
この星の根や土に触れたあとでは、
人の作った硬さは
どれも少し外側に感じられる。
それでも、
帰るにはこれに乗るしかない。
人間は中へ入る。
座席へ向かう前に、
まだ振り返ってしまう。
入口の向こう、
倒れた樹は残っている。
失われた部分だけが
影のかたちを変えている。
その影のそばで、
シエナはまだ動かない。
降下機の扉が
ゆっくりと閉じ始める。
景色が細くなる。
樹の輪郭が切り取られる。
群れの影が削られる。
最後に、
シエナの位置だけが
細い隙間に残る。
そして、
閉じる。
外の空気が遮られる。
内側の匂いへ戻る。
鉄属の音がする。
任務は続く。
記録は整理される。
回収物は分類される。
次の地点が出る。
時間は押し戻される。
人間は席へ腰を下ろし、
まだ片手に残る土を見つめる。
少し乾いている。
爪のあいだに薄く残っている。
その土を払えずにいるうち、
降下機の内部が低く震え始める。
出発の準備だ。
人間は目を閉じない。
閉じると、
倒れた樹の形ばかりが
もっとはっきりしてしまいそうだった。
代わりに、
閉じた扉を見る。
向こうにはもう
見えない樹がある。
見えない群れがある。
見えないシエナがいる。
それでも、
人間の中では
ずっと見えている。
樹は残り、
失われた部分だけが残る。
その言い方の意味が、
ようやく胸へ沈んでいく。
残るものの中に
欠けがある。
欠けがあるから、
その樹はもう前とは違う。
それでもなお、
樹のままでいる。
人間もまた、
似た形になるのかもしれないと
ふと思う。
この星で見たもの、
失わせたもの、
返らなかった合意、
最後まで切れなかった視線。
それらが
自分の中へ欠けとして残る。
消えはしない。
埋まりもしない。
ただ、
残る。
降下機が
地面からわずかに浮く。
その感覚で、
人間は初めて
本当に去るのだと知る。
去ることは、
離れることではない。
見たものの前から
身体だけを引きはがすことだ。
人間は
膝の上で手を握る。
指のしわに残った土が、
小さく砕けて落ちる。
その粒が床に落ちる音は、
思っていたよりもずっと小さかった。
小さいまま、
いつまでも耳に残る音だった。
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