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◻︎夫の提案
「今日は僕が晩ご飯作るから、涼子ちゃんはゆっくりしてて」
料理教室に行き始めて三週間。来月も続けたいらしい光太郎は、自称“上がった腕前”を私に披露すると言う。キッチンの片付けはとても上手くなったと思うけど、果たして料理の方は?
「じゃあさ、ゆっくり買い物してきてもいい?今夜の晩ご飯は全部任せちゃうよ」
「任せなさい!」
まるで漫画のようにどん!と胸を叩いて見せた我が夫。単純な人でよかったと思う、あ、馬鹿にしてるわけではなくて。うんちくとか世間体とかばかりを口にする人だったら、結婚生活もここまで続かなかっただろう。
晩ご飯の心配をせずに、好きに過ごせる仕事終わりの時間のなんと贅沢なことだろう。同じくらいの年代の人たちが、仕事を終えて駅の改札を急ぎ足で家路につくなか、私は久しぶりに駅ビルの中にあるお店を、ゆっくり散策していた。特に欲しいものがあるわけでもないけど、買おうと思えばいくらかの余裕が、財布にはある。
___衝動買いもできちゃうな
子どもたちが独立して、生活費のことを細かく考えなくてもよくなったということは、幸せなことだ。でも、そうなると反対に買い物したくなくなるという不思議。
___買えないと思うと買いたくなるものなのかも?
結局、地下街まで行き、お酒のおつまみになりそうなものだけを買った。たまには夫婦2人で晩酌もいいかも?なんて考える。いぶりがっことクリームチーズは、鉄板おつまみだし。
そろそろ晩ご飯もできてるころかと、家に帰る。玄関先まできたら、いい匂いがしてきた。
「ただいま!ねぇ!すごいね、外まで美味しそうな匂いがしてたよ。お腹空いちゃった」
「おかえり。あと少しで出来上がるから、手を洗ってきて」
「はぁーい!」
いままでと反対のセリフ。これはなんだか楽しいぞとワクワクする。
テーブルにつくと豚汁と、油揚げに何かを詰めて煮込んだものと、ポテトサラダが並べられた。
「うわっ!これほんとに光太郎さんが1人で作ったの?」
「うん、あ、キッチンはまだ見ないでね。片付けながらっていう高度な技はまだ出来ないから、とっ散らかってる」
「そんなの平気平気。早く食べようよ」
ご飯も光太郎がよそってくれた。
「「いただきまーす」」
それは予想より遥かに美味しくて、私は夫を見直した。
「ホントに才能があるのかもね、全部美味しいんだけど」
「だろ?やるときはやる男なんだって。でも……」
ご飯を食べながら、首をかしげてる夫。
「どうかした?」
「いや、ご飯がさ、思ったより美味しくない」
「あー、朝炊いたやつを保温してたからかな。少ない時は丼にでもあけてレンチンの方がいいかも?」
それでも夫はまだ、首をかしげている。
「もしかして、炊飯器のせいかな?」
話を聞くと、料理教室ではガスでご飯を炊くらしい。毎回その時に炊くから、炊きたてを食べているとか。
「そうだね、ガスで炊く専用のお鍋もあるよね?土鍋とか」
「電気の炊飯器ってさ、いる?今のやつ」
「え?なんで?」
「ガスにしない?これからは。2人分だけならその都度炊く方が絶対美味しいに決まってる!電気炊飯器、やめちゃお!そうしよう」
パンと手を叩いて、1人で決めてる様子だ。
「でも、ガスだとタイマーないし、いろんな炊き方ができるかわからないよ」
3年ほど前に、少し奮発して買った電気炊飯器は、いろんな機能がついていた。
「涼子ちゃん、いろんな炊き方ができる炊飯器があるけど、滅多に白米以外のものを炊いてないと思うけど?」
「あはは、面目ない。たしかに」
「それよりさ、シンプルなガス鍋で美味しご飯を炊こうよ、ね?」
そんなにご飯にこだわる人だったっけ?と考えてみる。
___料理教室の影響かな?
「まぁ、機能は少なくてシンプルな方が壊れにくいみたいだし、ガスで炊いたお米が美味しいのは、私もよく知ってるし」
「じゃあ、決まり!今度買いに行こうよ。毎日のことだから、美味しいご飯が炊けるやつ探そう」
ご飯をその都度炊くなんてめんどくさいと思ってたけど、言われてみたら今は夫と2人だけだから万が一炊けてなくても困ることはない。子供がいるとなかなかそういうわけにはいかないし、ご飯を炊く以外のことで忙しかった記憶がある。
「それ、いいね。なんだかさ、よく雑誌とかで見る“丁寧に暮らす”みたいな感じで」
私の頭の中には主婦雑誌の見出しが浮かんだ。
「丁寧に暮らすか……そうだね。無駄なこと省いてさ、大事なことを大事にしていきたいね」
「おっ!いいこと言うね!光太郎さん」
「でしょ?たまにはね」
少々鼻を高くしている様子。それにしても、こんな短期間で夫に変化が見られるなんて、料理教室とやらもなかなかやってくれるじゃないか。
「ね、料理教室で新しい友達とかできた?」
興味本位で訊いてみた。
「うん、ほら、これ見る?」
そう言ってスマホの写真を見せてくれた。そこには15人ほどのエプロンをした老若男女が写っていた。夫と年が近そうな人も何人かいる。
「この人がね、実は蕎麦打ちが得意らしいよ」
光太郎が指差したのは、同年代らしい男性。
「じゃあなんで料理教室に?」
「天ぷらを揚げることができなかったからって」
そんな話をしてくれる光太郎は、とても楽しそうだ。
楽しそうにしている人を見ていると、こちらまで楽しくなってくる。多分そんな気持ちが顔にでていたのだろう。
「なに?涼子ちゃん、ニヤニヤしちゃって」
「え?そうだった?あのね、光太郎さんが楽しそうにしてるのを見てると、私まで楽しくなってくるんだなと思いながら話を聞いてたの。だから、ニヤけてたのかも?」
「そうか、そういうもんか。あ、でもわかる気がする。不機嫌な人のそばにいるとこっちにも伝染するもんね」
「だよね。なんかいいなぁ……光太郎さんがうらやましくなってきた。私も何か始めてみようかな?」
「いいんじゃない?僕さ、この人に教えてもらって蕎麦打ちやってみたいんだけど。どう?」
「どう?って、ここで?」
私はキッチンを見渡した。決して広いとは言えないキッチンには、雑多な物が溢れている。とてもあの大きなまな板のようなものを広げたり、粉をこねこねしたりする場所なんかない。
「狭くない?」
「やっぱりダメか。リフォームでもする?」
「そこまでの余裕はないよ。あ、そうだ、いらないもの捨てちゃって模様替えしてみる?そしたら少しは広くなるかも?」
「いいね!早速明日からやってみるよ」
「え?明日から?」
「今からでもいいけど?」
「ホントに、言い出したらすぐやらないと気が済まない性格は相変わらずなのね」
「だってさ、楽しいことは早くやりたいじゃん?」
「そうだね」
光太郎と話しながら、手狭なキッチンを見渡してみる。あの籐籠に入ってるのは伊万里《いまり》が学生時代にバレンタインチョコを作ってた時のお菓子の道具、あの箱の中はたくさんの保存容器と買い置きのラップ。あのドアの中は、漬けてないけど置いてある漬物瓶……
___あれ?使ってないものばかりだ
「光太郎さん、やろう、明日から。いらないものを捨てちゃったら少しは広くなるよ、ここ」
「よし、やろう」
なんだろう、このワクワクする感じ。夫と一緒に何かをするなんて、もう何年もなかった。同じ目線で同じ目的があるというのは、こんなにワクワクするものなんだと気づく。
「あ、そうだ!お洗濯もおぼえてね」
「それは洗濯機がやるでしょ?」
「干し方とか、取り込んで畳むとか」
「えーっ、洗うだけじゃダメ?」
「せめてハンガーに干さないとね」
料理なら楽しいんだけどなと、ブツブツ言ってる光太郎。でも拒否はしなかったから、よしとしよう。