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#ワンナイトラブ
◆
『え?帰れない?』
「うん、仕事が立て込んでて」
『それ毎年でしょう?今年こそ時間作るって約束だったじゃない』
「ごめん、年末になると申請書だらけでさ」
『それでも少しくらい時間はあるんじゃないの』
「でも飛行機もキャンセルしちゃったんだよね、ごめん」
『もう!何年帰らないつもりよ、萌ちゃんの結婚式には必ず顔見せるのよ、分かった?』
「うん、分かった」
電話を切るとパソコンの脇に置いて、キーボードを鳴らした。
萌ちゃんの結婚式が来年だから、それまでには新しい……
脳内を別の事で埋めつくしていれば、目は先程と同じ羅列を確認するので漸くそれに気付く。
「あ、重複しちゃってる……もう……」
はぁ、と、重たい息をリビングに吐き出して、今まで打ち込んでいた内容を全て消し去った。
ボタンひとつで、全部綺麗に流せたらどんなに楽だろうな。と、ぼんやりとブルーライトを見守り、床に敷いたクッションに座り直す。
「まだやってんの?」
背中に静かな抑揚の声がぶつかるので、「うん」と小さく頷いて再びパソコンに向かう。
背後に衣擦れの音が聞こえれば、常葉くんは私の後ろにストン、と、座り込んで膝の間に私を挟む。そのままお腹を引き寄せるので、相棒とは簡単に引き離された。
代わりに常葉くんの手がキーボードを叩く。
嗅ぎなれた甘い香り、肌にすっと馴染む背中の温もり、片手なのに私よりも早いその音が子守唄代わりとなれば、自然と瞼が重くなった。
「実家、帰んないの?」
音に紛れて心地良い声が落ちると私の意識が現実へと舞い戻る。
電話の内容が聞こえていたのだろうか、言い訳せずに、頷いた。
「うん、やっぱやめようかなって」
「ふぅん」と、興味もなさそうに常葉くんは喉を震わせる。
三日、殆ど頭が空の状態で只管仕事に向き合った。
それはとても楽な事だから、気が済むまで家にも持ち帰っている。
常葉くんはあれから私に何も言わなかったし、今だって相槌だけで深く覗いてくれない。それがきっと、彼の優しさだろう。
カタカタと鳴る機械音に乗って、小さな鼻歌が鼓膜を震わせる。
優しいバラードは、本当に子守唄のようだった。
偶に車内でも聞くけれど、この距離で聞けばより一層心が落ち着く。
それなのに、この歌声は今の私には甘過ぎて泣きたくなる。それを隠すように私は瞳を閉じた。
歌、上手いなぁ。なんだって出来るの、狡いなぁ。
……私と離れても、すぐに新しい人、見つけるんだろうな。
膝を抱えて、自分を守るように抱き締めると、誘われるように意識が遠のいた。
一応、回転数の少なくなった私の頭でも、考えついたことがある。
秘書課への異動を受けようと思っている。
そうしたら今より仕事量も増えるだろうし、新しい業務に必死で嫌なことを考える暇も無さそうだ。
あの話は多分、私にくれたチャンスなのだろう。
今日にでも部長に相談して、正式に辞令が下ったら常葉くんに……言おう。
正解の道、間違えてはいけない道。
常葉くんの為にもそれが良いんだ。
始業が始まるまでの刹那、デスクに鎮座してパソコンを開き、昨夜の内容を確認する。
結局常葉くんに交代してすぐに寝てしまったのだけど、全部滞りなく終わっている。完璧だ。
凄いな、と、素直に嘆息を落とすと、たった三日で癖になった、不動産のホームページを開いた。
と同時に、ある不安が過った。
そう言えば……このページ昨日もそのままだったから、常葉くんに見られた……?
「朝礼始めるぞ、整列」
課長の声でその不安は遮断されてしまい、消化すること無く心の中に押し込めた。
「……以上、あとは、穂波は明日から二泊で出張な」
……出張?
…………明日から!?
聞きなれないワードが飛ぶので、脳内は強制的に考えを止める。
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