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その地は、風土荒れ果て、草木の影も見えぬほどに乱れておりける。日ごと夜ごと、民の騒ぐ声は絶ゆることなく、物の怪かと見まがうほどなる。されど、商いに勤しむ者ありて、音もなく時は流れゆきし。

その折しも、風のうちより微かな鈴の音、涼やかに響きぬ。振り返り見れば、遥か彼方より一人の女、歩みを進めておわす。幾重にも重なりたる衣は、桜の花のごとく華やかにして、色香たなびく十二単なり。

女は近づきて、さながら月の下に咲く藤のようなる面持ちにて、声も静かに言い給う。


「あら、あなた、いつからそこにいらしたの?」


その声に、荒びし空気しばし和らぎ、あたかも草花さえ萌え出づる気配せり。人の世に忘れられしやうなる清らかさ、確かにそこにあったり。

女の声、まるで水面に落つる露のごとく柔らかにして、胸の内に染み入りぬ。商いの手をふと止めし我は、言葉もなくただその姿を見つむるばかりなり。


「なんて綺麗なお花…。一輪、いただいてもよろしいかしら?」


その語りに、女はそっと目を細めて微笑み給う。その面影は、まるで百花の中に咲く一輪の桔梗のように、凛として気高し。


「お代はいらない」

「まあ、そんな…。こんなに美しいのに、何も無しにいただいてしまっては勿体ないわ。」


陽の光、かすかに射し込む荒れ地の片隅に、ひとひらの花咲きてありけり。土塊のなかにあっても、その花はなお、気高く美しき姿を保ちおり。わが袖にすがる風のまにまに、ふと女君に向かいて申す。


「この花を、美しいと思うのか」


女君、しばしその小さき花を見やり、薄紅の唇に淡き笑みを湛え給うて、言の葉をそっと落とし給う。


「ええ、そう思います。この世に本当に醜いものなんて、ひとつもないとわたくしは思っておりますの。」


その一言、あまりに穏やかにして、わが胸奥にほのかなる灯をともしたり。人の目にも留まらぬ草の花、されど誰かの心を動かし、美しと讃えらるることの、かくも嬉しきことと初めて知りぬ。

風はそよそよと吹き、鈴の音かすかに響きぬ。空の色、いつしか淡く晴れ渡りけり。


「この花は、とても特別なものなのです。そう感じてくださって、とても嬉しいです。」

「ええ、本当に美しいと思いますわ。もしあなたが咲かせたのだとしたら、それだけでさらに美しく思えてなりません。」


女君は、地に咲きし花一輪をそっと摘み取りて、たおやかなる動作にて我が傍らに腰を下ろし給う。微かな香、風に乗りてふわりと漂いしが、やがて女君、柔らかき声にて問いかけ給う。


「少し、相談してもよろしゅうございますか。」


我、いまだ何の返事も致さぬうちに、女君は言の葉を綴りはじめ給う。その声、初めこそ澄みて涼やかに響けり。されど、語られし内容は、まことに重く、耳にすこぶる辛きことどもなり。


「この世の中には、仮面をかぶったような人々に、数えきれぬほど出会ってきました。」


我は驚きて視線を逸らさんとす。否、聞かぬふりをせんと試みたり。されど、女君の声は、まるで鏡に映されたる己が影のごとく、逃れんとしても追いかけてくる。


「幼いころに光を失ったわたくしではございますが、世の中を不自由と嘆いたことは、一度たりともございませぬ。」

「人々の匂いが入り混じる中にあっても、わたくしは心の目でこそ、愛しき人を見つけ出すことができます。」


風のまにまに、細やかなる鈴の音、かすかに鳴りて響きたり。その調べは、まるで人知れず泣く童の嗚咽のごとく、寂しげにして胸を打つ。

我、思わず女君の面を伺いしに、いと物悲しき色を宿したる瞳、潤みておりぬ。まるで今にも、その眼の底より涙こぼれ出でんとする風情なり。先ほどまでの毅然たる物腰は影をひそめ、言の葉を失いしかのように、ただ遠くを見つめ給う。

この世ならぬ衣のひだに光る一滴、露か涙か見分け難く、ただ風ばかりが応えるように、花の香を運び行きぬ。

やがて鈴の音、再び細く震え、まるでその悲しみに呼応するかの如し。人の心の奥に潜む哀しみというもの、かくも静かに、そして深く響くものにてありけり。


「…また、和琴の音色に向き合うときも、目で見ることは叶わずとも、指先の記憶にて奏でることができます。それも、かの人が好んでいたゆえに、わたくしは日々、心を込めて稽古を重ねて参りました。」


その言葉の数々、我が胸にひとつひとつ突き刺さりぬ。女君の面差しには微笑の影すらなく、ただ真実のみを鋭き刃のように並べ給う。

風は止み、鈴の音も今はせず。周囲の時が、まるで凍りついたかのごとく、ただ我ら二人を包み込みたり。


「いつも心細さを感じてはいないのか」


我が問いかけに、女君の瞳、わずかに揺らぎて、まるで月影に波の影差すがごとし。返事もせず、ただ黙し給いて、時の流れもしばし凍りつきたるかに覚えたり。

その面持ち、何か言わんとしながらも、言葉を探しあぐねる様にてありけり。我、気まずき空気を悟り、言の葉を改めんと口を開きしかば


「されど、それは…」


女君の声、我が声と重なりて、やや鋭く響きたり。まるで心の裡を遮られしようなる、強き響きなりき。その声には、かすかに震えを宿してあり、胸の奥底より絞り出されたるものと覚ゆ。

言葉は剣より鋭く、沈黙の海に波紋を広げ、我はその続きをただ待つばかりなりし。


「わたくしはすでに気づいておりました。

もしかすると、気づかないまま過ごすことのほうが、かえって辛かったのかもしれません。 」

「今は苦しみもありますが、それでも、知らぬままよりは少しだけ救われる気がいたします。」


女君の言葉、まるで刃の如く鋭く、されどその奥に潜むるは、深き哀しみの色なりき。辛き思いを辛き言の葉に重ねて、己を守らんとせし姿、見るに忍びざりけり。

その様を見つめるうち、我が胸中に熱きものこみ上げ、思わず言の葉、口より滑り出でたり。


「嘘にて優しさを装う者は、誠の残酷に勝るもの。されば、そなたもまた、そうなのでありましょう。」

「いと苦しきことは、物の言葉にて癒ゆるものにあらず。それを苦しさにて応えんとするは、己をさらに痛めるのみぞ。」


我が声、制する間もなく宙に放たれぬ。静けさ破られし瞬間、女君の瞳、わずかに震え、潤みを帯びぬ。言葉は剣、放てば戻らず。けれど、それは己が真からの思いにてありし。

女君はなお俯き、沈黙の帳、ふたりを包みける。風の音すら遠のきて、ただ鈴の音、微かに響きぬ。

女君は、袖にて頬をぬぐい給う。その所作、ひたむきなる哀しさを帯び、露のようなる涙の痕を静かに拭いたり。衣のひだに滲むその跡もまた、物の哀れの情緒を宿していたり。 と、忽ち彼女は立ち上がり給う。まるで風の中に咲く椿が、突如として花弁をふるわせたるがごとく、静の中に秘めし激しさを示しぬ。衣の裾、ひるがえりて、踏みしめる音すら烈しければ、辺りの空気もわずかに震えたり。

そして、真直ぐに我が目を射抜くごとくに見つめ給い、低く、しかし紛うことなき気迫を込めて言い放ちぬ。


「わたくしは清涼院せいりょういんと申します。けれど、旦那様には“きよ”と呼ばれておりますの。

もしよろしければ、あなたもそう呼んでくださいませ。 また伺いますね。そのときには、あなたのお名前を教えていただけると嬉しいです。」


その声は、泣き濡れた眼差しの奥から、確かな意志を携えて届きたり。

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