コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
お咲の唄声が聞こえる中、吉田は、居間の隣りの部屋へ入って行った。
四畳半程の部屋だった。
置かれてあるのは、文机に、衣裳を仕舞う小箪笥のみの簡素さだが、どうしたことか、文机の上は、鉛筆や紙束などが、無造作に置かれてある。何か作業をしていて、そのままの状態に見えた。
置かれてある紙束には、奇妙な横線が書かれており黒い丸印が、びっしり記されている。
「こちらは、京介様の書斎兼、寝室で、あのように、作曲作業をされておられます」
月子が、文机を珍しそうに眺めていたからか、吉田が説明してくれるのだが、月子には、今一つ、意味が分からなかった。
きっと、岩崎の仕事なのだろうと思っていると、吉田は、前に見えるふすまを開けた。
「続き間が、月子様とお咲の部屋ということで。空き部屋は、こちらしかなかったもので、申し訳ありません」
壁には、背の高い本棚が数個置かれており、背表紙に外国語が書かれた本がぎっしり並んでいる。
入りきらなかったのか、床には、雑誌物が、積み重なって置かれてある。表紙には、こちらも、外国語が書かれており、月子が見たこともない西洋の楽器を演奏する人々の絵が描かれていた。
「あいすみません。一通りは、片付けたのですが、どうしても、京介様のお荷物が、邪魔になるでしょう……ご辛抱くださいましたら……」
言って、吉田は、月子へ深々と頭を下げた。
「あ、あの!吉田さん!そ、そんな!十分です!お部屋を用意して頂けるだけで、本当に、ありがたい話ですから!」
目上の吉田に、頭を下げられて、妙に緊張してしまった月子は、入口で、佇んでいることしかできない。
「おお、そうだ!私は、戻らなければなりませんので、月子様、お召しかえいただけませんか?」
吉田の視線を辿ると、二組並ぶ真新しい布団の上に、お咲が持って来た包みと、もうひとつ、包みがあった。
おそらく、そちらに、月子が着ていた木綿の着物が入っているのだろう。
「あ、あの、お布団まで用意して頂いたの……でしょうか。何から何まで、すみません。そ、それと、お着物も、お返ししますので……」
手回しの良さに、月子は、恐縮しつつ、吉田へ礼を言った。
「いえいえ、これが、私の仕事ですし、お着物は、月子様のものですよ。少し寸法直しをした方がよろしいようで、御屋敷へ、一旦持って帰るだけです。まあ、奥様のお下がりになりますが。何しろ、奥様は、着道楽。次から次へと着物も増えて、おまけに、若いときからの着物も取ってありますから、岩崎邸は、奥様のお着物に、ほとほと困っているのです。そうゆうことで、もし、よろしければ。月子様へ、お譲りしたいと、奥様も申しておりまして……あ!勿論、新しくお仕立てもいたします!」
僭越ながら寸法は、月子の着ていた着物から測ったと、吉田は、完璧過ぎる手配を月子へ説明し、では、と、踵を返しかけ……。
「おお!私としたことが!そちらのふすまが、居間に繋がっております。お着替えが終わりましたら、どうぞ、そちらから」
ここは、岩崎の部屋と居間と、隣り合わせで続いているのかと月子は間取りを理解し、はい、と返事をした。
「では、居間でお待ちしております」
きちりと、吉田は、頭を下げるが、
「そうそう、先ほどの件ですがね……、私が思いますに、月子様は、京介様の事を、旦那様とお呼びになられるのはいかがでしょう?京介様が、月子様の事を何とお呼びになるかは……京介様の自由にさせて差し上げるということで、ならば、丸く収まりませんかねぇ?」
ふふふ、と、小さく笑いながら、吉田は出て行った。
「……旦那様……か……」
吉田の提案に、なるほど、と月子は思い、呟いてみるが、たちまち、かっと、顔が火照った。
同時に、あの往来で岩崎が言った、一緒に歩んでくれという言葉を思い出していた。