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コメント
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第39話、重厚な戦略戦で息が詰まる展開でした……! スピリタスの罠にまんまと誘い込まれたアントンの焦りと、それでもシャチトルに縋ろうとする心情が切ないですね。「役不足よ」と嘲笑っていた余裕が、一瞬で崩れる様が鮮やかでした。バルブスが天を仰ぐ場面は無念さがひしひしと伝わってきます。アグリの補給線寸断作戦も冴え渡ってて、均衡がどう傾くのか次話が気になります🤍
アンゴラ湾――。
その湾口には二つの巨大な投石装置が築かれ、海を睨んでいた。
ここはグラン王都とイージプ王都イスカンダルを結ぶ中間地点。
海上交通を支配する最大の要衝、要塞である。
湾内には三百隻を超える軍船が並び、五万を超える兵が常駐していた。
その大軍を率いて、アントンは出陣する。
「さあ、小僧。かかってこい。」
一方、ライナー軍は湾を見下ろす高台へ陣地を築いた。
両軍は互いの姿を望める距離で対峙し、しばらくは睨み合いが続く。
やがて毎日のように、兵たちの怒号が戦場へ響き渡った。
「王とは名ばかりのひ弱な小僧!」
「南の王女の色香に迷った老いぼれ!」
挑発と士気高揚を目的とした罵声が、谷間にこだまする。
ライナーは苦笑しながら隣のスピリタスを見た。
「……ひどくないか。」
「あんなふうに思われているのか。」
スピリタスは肩をすくめる。
「まあ、兵たちの憂さ晴らしです。」
そう言うと、すぐに表情を引き締め、地図を広げた。
「それより、おそらく敵が先に動きます。」
一本の川を指でなぞる。
「この高台の水源は、この川です。」
「早晩、アントン軍はここを奪いに来るでしょう。」
ライナーは静かに地図へ目を落とした。
戦いは、もう始まっていた。
高台へ通じる水源――ロールス川。
その要所には櫓が組まれ、堅固な防御柵が張り巡らされていた。
「ここを落とせば敵は渇く。」
アントンは自ら騎兵を率いて突撃する。
柵は次々と打ち破られ、櫓は炎に包まれた。
守備兵は散り散りとなって逃げ出す。
「アグリ……ジュリアスが目をかけていた少年だったか。」
燃え上がる陣地を見渡し、アントンは鼻で笑った。
「南にいるとは残念だ。」
「総大将がライナーでは役不足よ。」
勝利を確信したアントンは馬首を返した。
「引き揚げるぞ。」
その瞬間だった。
「敵襲!」
左右の森が、一斉に鳴動した。
無数の矢が空を覆い、親衛隊へ降り注ぐ。
「どこからだ!」
アントンは愕然と辺りを見回す。
水源ばかりへ目を奪われ、周囲の地形を確認していなかった。
木立の陰から現れたのは、パーカーブラザーズ率いる弓騎兵だった。
左右から半円を描くように駆け、退路を塞ぐ。
これはスピリタスの策だった。
あえて水源を守らせ、アントンを誘い込み、退路を断つ。
「アントン様!」
親衛隊長バルブスが馬を寄せる。
「ここは我らにお任せください!」
「ならん!」
アントンは剣を抜き放つ。
「ここで退けば笑い者だ!」
「シャチトルが……シャチトルが見ておるのだ!」
「そのようなことを申している場合ではございません!」
バルブスは声を荒らげた。
「今、高台から敵本隊が下れば、我らは袋の鼠です!」
アントンは唇を噛み締めた。
「……すまぬ。」
「こちらへ!」
バルブスは馬首を返す。
親衛隊は楔形の陣を組み、矢を浴びながら血路を切り開いた。
高台の前に築かれた本陣へ戻ったアントンは、兜を外すこともなく、
その場へ力なく腰を下ろした。
燃え落ちる水源陣地。
左右から降り注いだ矢。
親衛隊が命懸けで切り開いた退路。
その光景が何度も脳裏をよぎる。
しばらく沈黙が続いた後、アントンはぽつりと口を開いた。
「……敵将は、何という名だった。」
控えていた将校が答える。
「スピリタスと申します。カシスを討ち取った軍師にございます。」
「そうか……。」
アントンは遠くを見るように目を細めた。
「平民出身だったな。」
その声には、悔しさとも諦めともつかぬ響きが混じっていた。
そのとき、天幕の幕が勢いよく開かれる。
「アントン様!」
参謀デリウスが息を切らして駆け込んできた。
「ガイロ将軍が帰還されました! 至急、お目通りを願いたいとのことです!」
アントンは顔も上げず、力なく手を振った。
「……今はよい。」
「シャチトルに会ってくる。」
天幕の空気が凍りつく。
親衛隊長バルブスが思わず一歩前へ出た。
「なりません。」
低く、しかし強い声だった。
「今はそのような時ではございません。」
アントンはゆっくりと顔を上げる。
「ガイロ将軍は海軍を率いて戻られました。
各地からも続々と報告が届いております。」
「ここは戦場です。」
「どうか今は、女王陛下のことはお忘れください。」
その言葉に、アントンの眉がぴくりと動く。
「……今の言葉は聞かなかったことにする。」
静かな声だった。
だが、その奥には怒りが潜んでいた。
「後で行く。」
「バルブス、お前が各将の報告を聞いておいてくれ。」
そう言い残すと、アントンは立ち上がり、天幕の出口へ歩き始めた。
「アントン様!」
バルブスの叫びも、もう届かない。
やがて幕が静かに閉じられた。
天幕には重苦しい沈黙だけが残る。
デリウスは言葉を失い、ただ俯いた。
バルブスは握り締めた拳を震わせながら、ゆっくりと天を仰ぐ。
「……これでは。」
そのつぶやきは、誰にも届くことなく虚空へ消えていった。
全軍から見れば、それは一つの水源をめぐる小規模な戦闘にすぎなかった。
しかし、その意味は決して小さくはない。
天下へ武名を轟かせた総司令アントンが、自ら出陣して敗れたのである。
その報は瞬く間に全軍へ広がった。
「アントン様が退かれたらしい。」
「親衛隊が命懸けで救い出したというぞ。」
「まさか……。」
動揺は、静かな波紋のように陣営全体へ広がっていった。
一方、その隙を逃すアグリではなかった。
南方では、小型艦隊が海上を疾風のごとく駆ける。
巨大艦との決戦を避けながら、狙うのはただ一つ――補給船だった。
穀物を積んだ輸送船。
武器や矢を運ぶ補給船。
兵を乗せた輸送船。
発見するたびに襲いかかり、炎を放ち、海の底へ沈めていく。
「敵主力には構うな。」
「補給だけを断て。」
アグリの命令は徹底していた。
南方では、アグリ艦隊による補給線への襲撃が止むことはなかった。
補給船が港を出れば姿を消す。
護衛艦を増やせば、別の航路が襲われる。
網を広げれば広げるほど、小型艦隊はその隙をすり抜けていった。
その対応に追われたカニデスは、ついに南方戦線を離れることができなくなる。
「また補給船が沈められました!」
「港の備蓄も底をつきかけています!」
報告が届くたび、カニデスの表情は険しさを増した。
前線へ送られる食糧は日ごとに減っていく。
兵たちの配給は削られ、家畜は食い尽くされ、
ついには野草まで口にする者が現れた。
飢えは、人の心を蝕む。
夜陰に紛れて陣営を抜け出す兵。
武具を捨て、故郷へ逃げ帰ろうとする者。
その数は日に日に増えていった。
「逃亡兵を捕らえよ。」
カニデスは冷徹に命じる。
連れ戻された兵たちは、全軍の前へ引き出された。
「軍法により処刑する。」
剣が振り下ろされる。
その刃が向かう相手は、もはや敵ではない。
味方だった。
それでも逃亡は止まらなかった。
飢えへの恐怖は、いかなる軍律よりも強かったのである。