おや? なんの騒ぎだろう。
その日の昼過ぎ、中原は会社のロビーにある小さなラウンジの近くで、足を止めた。
見ると、輪の中心に居るのは、のどかだった。
花束や紙袋をたくさん抱えている。
今日が最後だったのか。
なにも用意してなかったな、と思ったが。
……まあ、たぶん、こいつとはまた会うよな、と思って、ちょっとホッとする。
「のどか。
行くよ、古民家カフェ」
という風子の声が聞こえてきた。
……雑草カフェだろ。
「開店したら、ぜひ教えてくださいっ、のどかさんっ」
と女子社員に人気の可愛い系、男性新入社員も言っていた。
お前は来なくていい……。
みんな、のどかと話したあと、自分の部署に戻っていった。
花束を手にしたのどかが、こちらに気づいて、あ、という顔をする。
「中原さん」
と近づいてきたので、
「なにも祝いはないぞ」
と言うと、
「そんなの期待してませんよ」
とのどかは笑う。
「俺が気が利かない男だと言うのか」
「いや、そうじゃないですよ……。
なんで、そうひねくれてるんです」
社外で会うようになってから、言いたい放題言うようになったな、こいつも、と思って、のどかを見たが、のどかは、
「だって、中原さんには、どうせすぐ会うでしょ?」
と笑って言ってくる。
ちょっと嬉しかった気がするが、まあ、気のせいだろう。
「そういえば、ついにお店の営業許可が下りてしまったんですよね~」
とのどかが溜息をつくので、
「……下りちゃいけなかったのか」
と言うと、
いえいえ、そうではなくてですね、とのどかは苦笑いしたあとで、
「いよいよだなー、と思って緊張したり。
まだなんにも準備が終わってないなーと思って焦ったりなんですよ」
と言う。
あ、そうだ、とのどかは紙袋の中をゴソゴソやったあとで、
「これ、あまったので、おひとつどうぞ」
となにが入っているのか、みんなに配ったらしい小さな可愛らしい紙袋をくれる。
「中原さんとか綾太とかは、これでお別れというわけでもないので、特に配りには行かなかったんですけど」
その紙袋にはのどかの店のショップカードがついていた。
「カードできたのか。
お前が作ったんじゃないだろう。
センスがいい」
と言いながら、中原はシンプルなデザインのそのカードを袋から外して見る。
「いや~、でもそれ、まだ、こんな雰囲気でっていうのを作ってみただけなので。
配ったの、親しい人にだけなんですけどね。
まだ他にもなにか載せないといけないことがある気がして」
とのどかは言うが、
「いや、あまりごちゃごちゃしてない方が見やすくていい」
と中原は言った。
「そうですか。
じゃあ、そのままにしようかなー」
とのどかは、あっさり自分の案を採用してくれる。
「あ、それと、ポイントカードも作ろうかなーと思ってるんですけどね」
「ポイントカード?」
「そう。
ほら、よくある、スタンプがたまると、なにかが起こるカードです」
あのあばら屋敷で、なにがっ? と思いなから、中原は言った。
「普通、割引券とかになるんだろ……」
あ、そうでしたね、と笑ったあとで、のどかは、
「そうだ。
これから仕事の合間に、社長と北村さんがうちのサイト作ってくれるんでした。
そろそろ差し入れ持っていかないと。
中原さん。
いろいろお世話になりました。
じゃあ、また」
と深々お辞儀をしてきた。
ああ、と中原は小さく言った。
のどかは笑顔で去っていく。
これでもう社内でこいつの姿を見ることはないのか。
会社に居る間に、もうちょっと……
いやいや。
のどかは渡り廊下のところで、他の部署のおじさんと出会って、また話し込んでいる。
その後ろ姿を見ながら、
気のせいか、ちょっと色気が出てきたような、と中原は思っていた。
まあ、俺の家の几帳面に掃除された部屋の片隅に、そういえば、あるかなーくらいのチリほどのものだが。
……成瀬社長となにかあったのだろうか。
まあ、夫婦なのに、今までなにもなかったのが、おかしかったわけだからな、と思ったあとで、のどかに背を向ける。
まあ、これで社内も静かになるな、とのどかとおじさんの笑い声を聞きながら、中原は思っていた。
去り行く胡桃沢を物陰から、ずっと見ている社長がちょっと怖いが……。
綾太は仕事もせず、曲がり角のところに立って、ずっとのどかを見ている。
そこを通る社員たちは、声をかけても悪いと思ってか、みんな見て見ぬフリをして通り過ぎていた。
……気の利く社員たちだ。
一度、寮に帰ったのどかは、玄関ロビーに花を活けてから、買い物をし、貴弘の会社に行った。
「お疲れ様です~」
と顔を覗けると、社員が一人、狭い禁煙スペースで煙草を吸っているのが見えた。
「どうしたんですか?
ついに行政の指導でも入ったとか?」
とそちらを見ながら言うと、北村が苦笑いして言ってきた。
「……社長、禁煙することにしたそうです。
それで、他にも何人か禁煙する気になったのが居て。
匂いを嗅いで、吸いたくならないよう、吸う人が禁煙スペースに」
……ややこしいな、相変わらず、と思ったとき、腕を組み俯いていた貴弘が言ってきた。
「禁煙すると、イライラするな。
なにか殴りたいな、のどか」
「いや……凶悪化するのなら、禁煙しないでください」
はい、差し入れです~とのどかは貴弘の机にどさりと紙袋を置いた。
「金曜しか開いてないパン屋さんのパンですー」
「やる気あるのか、そのパン屋」
とイラついている貴弘が言ってくる。
……すみません。
さっさと吸ってください、と思うのどかの袖を引き、北村が小声で言ってくる。
「もしかして、のどかさん、おめでたですか?」
いや、最近は、キスしただけで子どもができるのですか……?
と思いながら、マンションでの最後の夜にしたキスを思い出し、赤くなる。
寮に入ってからは、案の定な怒涛の忙しさと騒がしさで、あんな風な、しっとりとした二人の時間を持つことなどできないでいるのだが。
まあ、寮も店もオープン前なので、仕方がない。
「いや、全然、そんなんじゃないです。
なんで急に禁煙なんて――」
とのどかが言うと、貴弘は俯き、頭を抱えたまま、
「……ずっとお前の先を行くと決めたからな。
元気でいつまでも走り続けなければと思ったんだ」
と言ったあとで、いきなり、貴弘はデスクに何度か頭を打ち付け始めた。
……こんな愉快な社長は初めて見たな。
禁煙がこんなに人を錯乱させるものだとは。
かえって身体に悪い気がする、と思いながら、のどかは言った。
「あの……とりあえず、電子タバコにしたらどうですか? 買ってきますよ」
鞄を手に出て行こうとして、
「のどか」
と呼び止められる。
「行かないでくれ。
俺の手を握っていてくれ」
デスクに額をつけたまま貴弘は言ってくる。
まるで、捨てないでくれ、と土下座されて、懇願されているかのようだ……。
「……社長、もう吸った方がいいですよ」
とのどかが言うと、そのままの体勢で貴弘は言ってきた。
「そうだ。
そろそろあいつが寮に出社するから頼む。
……あいつ、ほら、あいつだ」
名前まで出てこなくなりましたか。
軽い痴呆の始まりのようで、ちょっと怖いので、さっさと吸ってください、
と煙草を咥えさせて、火をつけたくなる。
しかし、寮に出社、という言葉でわかった。
「青田さんですね?」
例の出社できないイケメンのことだろう。
「そうだ。
あの寮には、これ以上若い男を住まわせたくなかったんだが。
人から預かった手前、あいつが出社できるようになるまで、面倒見なければな。
そうだ、お前ら。
もうすぐ寮も社食兼カフェも完成するんだが、誰か寮に入りたいやつは居るか」
俯いたままの貴弘の脳天を皆が見た。
今の話の展開で、入りたいです、と言い出せるツワモノは此処には居ないようだった。
というか、社長は居る、刑事は居る、もしかしたら、よその会社の社長も居る寮に入りたい人間は居ないに違いない。
家でくらいゆっくりしたいはずだ。
……あの寮が寮である意味は一体、と思ったあとで、のどかは、
「じゃ、電子タバコ、買ってきます~」
と言って、会社を出た。
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