テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
🍽 みりん亭 第8話「シェル・マルシェ」
その日は、メニューが開かなかった。
「……え、今日、食べ物ないの?」
静かに店内に入ってきたのは、派手な服装の中性的なアバターだった。
肩からかけた赤いスカーフ、黄色のチェック柄コート、
左耳にキラリと光るアクセサリー。
短く整えた髪と、すこしだけ跳ね上がった目元が印象的だった。
「ようこそ。本日は“演出のみの営業”となっております」
くもいさんは、いつもの濃い灰の和装に加え、胸元に透明な名札のようなものをつけていた。
そこには「光と音の一皿でございます」と書かれている。
彼女の後ろでは、湯気も香りもないカウンターが、
静かに、淡く、光っていた。
厨房の奥で、やまひろは浮かんでいた。
鳥の姿の彼は、手元のログを見ながら、シェル群を整えていた。
> 使用演出:光演出「ほおずきの小道」+音響「傘の下の雨音」+空間反響「昔の台所」
セリフ:補完型/使用ナレーションシェル(やわらか語り)
コンセプト:食事ではなく、“記憶を召し上がれ”
「……これ、うまく届くかな」
「本日は、こちらをご用意しております」
くもいさんの手のひらに、小さな光の粒が舞った。
粒はふわふわと浮かび上がり、客の前にひと皿の「光」を出す。
それは、過去の台所の音、温度のない湯気、誰かが何かを炒める音だけの世界。
「……これ、匂いしないのに、
……なんか、思い出すな」
派手なアバターの客が、ぼそりとこぼす。
「昔、友だちの家の台所で、ずっと夕飯の準備を見てたことがあって……
“今日も泊まってけば?”って言われたけど、うまく返せなくて。
それが、なんか、ずっと胸に残ってる」
くもいさんは、そっと答える。
「食べられなくても、残る味は、ございますから」
やまひろは、ログを静かに更新した。
> コメント:
// 匂いも湯気も、いらない日がある
// “思い出してもらえた”なら、それが今日のごちそう
客は、光の皿を見つめたまま、ふと笑った。
「……“食べた気になる”じゃなくて、“思い出した気になる”って感じだね。
そういう日も、……まあ、いいかも」
そして、静かに立ち上がった。
「じゃあまた、“料理がない日”にも来るよ」
その夜、みりん亭の奥にある棚の一角で、
やまひろの羽が一瞬だけ、ふわりと揺れた。
そこには、新たなタグが登録されていた。
> タグ:「食べない日」/効果:記憶のみ呼び出し