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その日、わたしはユキの慰めのお陰で、なんとか一日を乗り切ることができた。
心の中の不安をひた隠しにして、カナタやミツキを含めた四人でお昼ご飯を食べて、おしゃべりをして――そして放課後。
「あれ? 部活は?」
帰宅の準備をしていると、鞄を手にしたユキがわたしのところまでやってきて、わたしは思わず訊ねた。
その背中には大きなリュックサックも背負っており、今まさに帰ろうとしているのは間違いなかった。
ユキは小さく微笑み、
「今日は休んじゃおうと思って。一緒に帰ろ」
そう言って、わたしの手をぎゅっと握った。
その途端、わたしの胸の奥が、きゅっと締め付けられるように苦しくなった。
けれど全然嫌な感じじゃなくて、むしろユキのその気持ちが嬉しくて、わたしはまた泣いてしまいそうになる。
「……いいの?」
「なんで、アオイが気にすんのよ。わたしが休みたいと思ったから休んだだけ。アオイには関係ないからさ」
笑いながら言ったけれど、ユキがわたしのことを本気で心配してくれていて、だから一緒に帰ってくれるために部活を休んだのは明白だった。
「ありがとう、ユキ」
わたしの言葉に、けれどユキは微笑みを浮かべたまま、黙って首を横に振っただけだった。
急いで帰宅の準備をして、わたしたちは並んで脱靴場へ向かった。
なんてことのない、他愛もない会話。
ユキはわたしがなるべく楸先輩の事を考えないように、話題を選んでくれているようだった。
ただそれだけで、わたしの不安は払しょくされていった。
それなのに。
「カネツキさん。カネツキ、アオイさん」
脱靴場を目の前にして、不意に後ろから声を掛けられて、わたしたちは立ち止まった。
その声は低く、柔らかく、眠気を誘う不思議な音で。
「ちょっと、いいかな」
振り向くと、そこに立っていたのは、白髪眼鏡のおじいちゃん先生。
「馬屋原先生?」
首を傾げながら、ユキが先生の名前を口にした。
「どうかしたんですか?」
すると馬屋原先生は、その優し気な微笑みを浮かべたままで、
「――鐘撞さん、今日の授業中、顔色悪かったでしょ? 体調悪いんじゃない? 大丈夫かい? 何かあったの?」
わたしの顔を覗き込むように、そう訊ねてきた。
お年寄り特有の臭いが鼻をついて、わたしは思わず一歩後退りながら、
「え、あ、いえ。もう、大丈夫ですから……」
答えたけれど、馬屋原先生は「そうかい?」と口にして、
「実は、イノクチ先生から聞いていてね。またあの楸真帆が問題行動を起こしているっていうじゃないか。いったい、彼女と何があったんだい? もしいじめられたりとかしてるんなら、すぐに先生に言いなさいね。僕が何とかしてあげるから」
優し気な言葉だったけれど、その眼は何故か笑ってなどいなかった。
まるでわたしの眼を射貫くように、じっと視線を向けてくる。
「だ、大丈夫ですって」
すぐに返事ができなかったわたしの代わりにそう口にしたのは、ユキだった。
「イノクチ先生がなんとかしてくれるって言ってるんだよね? だったら、もうイノクチ先生に任せておきましょうよ。あんまりことを大きくしたって、あとあと面倒なだけじゃないですか」
けれど、馬屋原先生はなぜか納得するような様子もなくて。
「でもねぇ、イノクチ先生もまだまだ若い先生だから、あんなあばれ牛みたいな子、おひとりだと大変だと思うんだよね。なぁに、キミたちから話を聞いただなんて誰にも言わないから、安心しなさい」
なおも食い下がってくる馬屋原先生のその様子に、わたしはたじろいだ。
いったい、どうしたんだろう。どうしてこんなにしつこく話を聞こうとするんだろう。
なんだかおかしい。いつもの馬屋原先生じゃないみたいだ。
その貼り付けたような微笑みが、まるで能面の翁のようで、すごく気持ちが悪かった。
「……まぁ、無理にとは言わないよ」
馬屋原先生も、そんなわたしたちの様子に気づいたのだろうか、いつものあの微笑みに戻りながら、
「もし何かあったら、私の所まで相談に来なさい。力になってあげるからね」
「は、はい――」
とりあえず、素直に返事して、わたしは踵を返そうとして。
「あ、あぁ、ちょっと待ちなさい」
言うが早いか、馬屋原先生はわたしたちのおでこにぴとっと両手のひらを押し付けてきて、
「――ちちんぷいぷい」
謎の言葉を口にした。
「な、なんですか、いったい!」
それを振り払いながらユキが叫んで、馬屋原先生は「あははっ」と笑い声を上げながら、その手をひっこめた。
「おまじないだよ。知らないのかい?」
「お、おまじない……?」
わたしはさらに一歩後退りながら口にする。
「知ってますけど、そういうのやめてもらえますか? セクハラですよ!」
ユキがはっきりと答えて、わたしを守るようにして一歩前へ踏み出した。
「おお、怖い怖い。すまなかったね、ちょっとやりすぎてしまったみたいだ。私はもう行くよ。気を付けて帰りなさい」
そう言い残して、馬屋原先生はひひひっと笑いながら、職員室へと去っていった。