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夕陽が落ちた初秋の薄明の風は、さらりとして気持ちがいい。
グレンシスはゆったりと目を閉じて、虫の奏でる秋の音に耳を澄ます。
鈴虫の可憐な旋律に重なるように馬車が止まり、大柄な人物がこちらに向かって歩いてくる足音がする。
目を開ければ薄暗くなった視界に、ほんの少し色づき始めたハナミズキの葉が映った。この花はロハン邸の庭にもあるが、庭のその葉はまだ青々としている。
(気の早いことだ。何もそう焦って、枯れていかなくても)
グレンシスはそんなことを思い、まるで売れない詩人みたいだと苦笑し、肺が空っぽになるまで深いため息を吐いた。
自分の屋敷でティアと過ごした10日間は、とても楽しかった。
これまで休暇など名ばかりで、いつも仕事を持ち帰っていたのに、ティアと過ごした10日間は、仕事のことなどすっかり忘れていた。
そして、ティアの事ばかり見ていた。視界に入らない時でも、いつも考えていた。
可愛くて仕方がなかった。とことん甘やかしたいと思った。ティアの希望なら何でも聞き入れたかった。
もちろんティアは療養のために屋敷にいることはわかっているが、彼女の怪我が一秒でも長引けばいいとすら思うようになっていた。
俺にだけワガママを言ってくれ。俺を困らせてくれ。そして早く俺を、好きになってくれ。どうか求めてくれ。
グレンシスは、いつもそう心の中でティアに語り掛けていた。
他人だと思わないでほしかった。遠慮なんかしないで欲しかった。そして、自分のことを恋人だと………いや、夫だと思ってほしかった。
なぜならグレンシスには、ティアを受け止める覚悟はできていた。これから先、どんなことがあっても、自分ならティアを護り抜ける自信があった。
ティアがロハン邸に滞在していた時、既にグレンシスはバザロフから聞いていた。
出生のことも、不思議な術が移し身の術と呼ばれていることも。そして、まだティアが知らないことまでも。
その全てをひっくるめて、グレンシスはティアと共に人生を歩みたかった。
けれど、ティアはそんなグレンシスの気持ちには、みじんも気付いてなかった。それがとても寂しかった。焦れた思いで求婚をすれば、けんもほろろに振られてしまう始末。
挙句の果てには、取ってつけたような言い訳を口にして、最後にワガママを言った。メゾン・プレザンに戻りたいと。
グレンシスが嫌と言えるわけがない。ティアに恋をしているのではなく、愛してしまっていたのだから。
誰に教えてもらったわけでもないのに、グレンシスは、ちゃんとわかっていた。
恋は求めるもので、愛は与えるものだと。
本音を言えばティアへ向かう気持ちが、いっそ愛だと気付かなければ良かったと思った。ずっと恋だけをしていたかった。
でも、しかたない。気付いてしまったこの気持ちを、偽ることはできないのだから。
あの時、もっともっと無様に跪いて希っても、ティアのワガママを無視して、無理矢理抱いて既成事実を作ったとしても、グレンシス自身が納得することはなかった。
グレンシスはただ、ティアを幸せにしたかっただけなのだから。
だから、グレンシスは鳥籠を開けた。ティアを自由にした。それは間違いではなかったと言い切れる。
それでもやはり辛い。時計を戻して出会い方をやり直しても、きっと同じことを繰り返してしまうとわかっていても。それでも、想いは消えるどころか募るばかり。
とどのつまり、グレンシスはティアに会いたいのだ。会いたくて、会いたくて、たまらないのだ。
でも、会いに行く理由が見つからない。どの面下げて会いに行けるというのか。
「──グレン、気まずいか?何なら儂一人で行って来ても良いんだぞ」
「ご冗談を。私も行きます」
上官であるバザロフが隣に並んだ途端、ズバリとそんなことを聞かれてしまった。すぐさまグレンシスは噛みつくように首を横に振った。
だがバザロフは、どうだかと呟いて低く笑う。まったく意地が悪い。
とはいえバザロフは、この騎士のせいでマダムローズとの賭けに負けたのだから、これくらいの弄りは甘んじて受け止めなくてはならない。そしてこの忠告も、また──
「口だけは達者のようだな。だかな、お前が身を呈してティアを守ると言ったから、休暇中、ティアをお前の屋敷に滞在することを許したというのに……。この腑抜けがっ」
「すべては、自分の不徳の致すところです」
グレンシスは、早く説教が終わって欲しい時に部下が良く口にする言葉を淡々と紡いだ。
だが、バザロフの言葉は止まらない。
「まったく……こんなことになるなら、儂のほうからティアにお前の所にもう少し滞在しろと言って留めておけば良かったな。お前の言うことが聞けなくても、儂の言うことならもう少し素直にきいたのかもしれんしな」
バザロフはそう言って、溜息を付きながらグレンシスの手元に視線を移した。
グレンシスが手にしているのは、国王陛下の封蝋がされている書簡だ。二人はここに、とてもとても面倒くさいことが書かれていることを知っている。
ここはメゾン・プレザンの裏庭に続く歩道。二人は本日、マダムローズにこの書簡を届ける為に赴いた。
好きな人がいる場所なのに、グレンシスの足は重い。上司に始末書を提出しに行くくらい気も重い。
「さすがに、そう言われると耳が痛いですね。でも、あの時はそうするしかなかったのです」
言い訳半分、事実半分を混ぜてグレンシスはそう呟くと、肩を落として項垂れた。
求婚した後、ティアが身を引くために紡いだ言葉は、まるで自身を傷つけているかのようにグレンシスには聞こえた。
無理して笑うその顔を、グレンシスは見ていられなかった。泣かせたくなかった。悲しい顔をして欲しくなかった。心からの笑みを浮かべて欲しかった。
だから、グレンシスはティアから手を離した。ティアを籠の中の鳥にはしたくなかったから。……しばらくの間だけ。
グレンシスは自分が執念深く、諦めが悪い性格だということを自覚している。
それにティアは、自分のことを好きだと言ってくれたのだから、諦める理由なんてないのだ。
今はティアが戻ってきたいと思ってもらえるように、努力するしかない。
もちろん、ティアがどうにもならないことで困っているなら、その時は、もう強引にでも奪い去る。彼女が何を言っても。
「ならお前の元から去ったティアは、もうとっくに、ふっきれているだろうなぁ」
バザロフの嫌がらせ、再び。
けれどグレンシスはそんなことを言われても、さらりと聞き流す。
この一ヶ月でグレンシスは、こういった弄りや嫌味を嫌というほど受けてきたので、免疫が付いてしまった。
『お二人の愛の花壇を作りたかった』という庭師のボヤキを立ち聞きし、リネン室の前を通れば『ご主人様とティアさまの子供を見たかった』と、メイドの嘆きを聞いてしまい。挙句の果てには、執事からの露骨な溜息。
ちなみに一番辛かったのは、マーサからの延々と続く小言だった。
グレンシスは、ティアと別れた後、毎日、使用人達から無言と有言と遠回しな責めを受け続けていたのである。自業自得とはいえ、はっきり言ってこの日々は地獄であった。
だからグレンシスにとって、このバザロフの嫌味など可愛いもの。秋の虫の音に限りなく近い。
「だから、どうしたというのです。私は、一度振られたくらいで、想いを断ち切るような弱虫ではありません」
「結構。騎士とはそうあるべきだな」
グレンシスは拳一つ分大きいバザロフに視線を移し、きっぱりと言い切った。
納得した様子で一度はバザロフは頷いてみた。が、
「名前もわからぬ娘を3年も想っていられたのだから、なぁ?」
すぐに意地悪く笑うバザロフに、グレイシスは口に苦虫を100匹ほど詰め込んだ顔をした。
「何十年も片想いをされているかたからの言葉は、骨身に染みます」
「っ………!!」
しみじみと呟くグレンシスに、今度はバザロフが口に苦虫を50匹ほど詰め込んだ顔をした。
しばらくの間の後、二人は場の空気を変えるように同時に咳ばらいをした。
「……では、参ろうか」
「はい」
グレンシスが素直に頷いて歩き続ければ、すぐにメゾン・プレザンの裏口が視界に入った。
そこで二人は、あり得ない言葉を耳にしてしまった。
『ティア、僕と結婚してくれ』
───ぐしゃ。
グレンシスが手にしていた書簡が、無残に握り潰されてしまった。
この国で最たる存在の直筆の書面を、グレンシスは握り潰してしまったけれど、当の本人はそれどころじゃなかった。
「あんのクソガキ」
「小僧が、舐めたことをしてくれるわ」
二人は同時に唸り声をあげた。バザロフは、かつて剣鬼と称された時の500倍は強い殺気を放っている。
そのオーラにビビったのか、秋の虫の音が突如止まった。
「ティアにいきなり求婚だと?まったく儂に断りもなく勝手なことをしおって。こういうのは、まず、儂の適正試験を受け、それをパスしてから、文通から交際を始めるのが筋だというものをっ」
すぐさま憤怒の表情になるバザロフだけれど、隣にいたはずのグレンシスは、既に裏口へと駆け出していた。