太田の肩越しに見えた恋人の顔にほっとして、全身から力が抜けそうになった。
拓真は私を真っすぐに見て大股で近づいてきた。私の前にいた太田がはっとして振り返ったと同時に彼の腕を捻り上げ、力任せに床に引き倒した。
「笹本、大丈夫か!」
拓真の後に続いて、聞き覚えのある声が聞こえた。目を上げたそこにいたのは斉藤だった。
どうして斉藤までここに居るのかと思っていると、拓真が当たり前のように彼に頼む。
「斉藤さん、この人のこと、抑えといてもらえますか」
「了解。しかし、太田、お前がこんなにバカなやつだとは思わなかったぜ。職場の同僚、いや、女に乱暴するなんて、クズ過ぎる」
斉藤に腕を背中で捉えられながら、太田は首を横に振る。
「違う、これには理由が!」
「違うって何がだよ。笹本の様子を見れば明らかだろ。それにどんな理由があったか知らないが、乱暴するなんて言語道断だ」
「っつ……」
斉藤に後ろ手でぐいっと強く腕をつかまれて、太田の顔が歪む。
目の前の光景をぼんやりとした目で見ていると、拓真が私の体にそっと腕を回した。
その感触に心の底から安堵した。
「来るのが遅くなってごめん。まさかこんなことになるなんて、俺の読みが甘かった。席に戻ったら碧も太田もいないから焦った。太田は外出してるって言うし、碧は資料室に行ったって言うしで、嫌な予感がしたんだ。斉藤さんも心配して一緒に来てくれたんだよ」
「北川さんが血相変えて出て行ったからな。何があったのかって、心配にもなるだろ」
太田の腕をぎりぎりと締めあげながら、斉藤が付け加えるように言っていた。
拓真が私の顔を見て、痛ましそうに顔を歪めた。
「血がにじんでる……。唇、切ったのか」
私ははっとして唇に指で触れた。たぶん太田に頬を叩かれた時だろう。拓真がハンカチでそっと私の唇を拭ってくれた。
「医務室に連れて行く。あぁ、その前に電話を一本入れておかないと」
太田の顔色が瞬時に変わった。
「電話ってどこに……。まさか、警察……」
拓真は太田をひんやりと冷たい目で見下ろした。
「警察ね。場合によっては届け出を出すこともあるかもしれないね。でも、まずは上の方に報告をしないと」
拓真は携帯を取り出して、誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし、拓真です」
『拓真』って……。誰にかけてるの?
私の怪訝な表情に気づき、拓真は安心させるように軽く頷いて見せてから電話を続けた。
「すいません。外出中なのは分かってたんですけど、問題が起きたもので。今、どこですか?もうすぐ戻る?それじゃあ、戻ってきたらすぐに報告したいので……。お願いします」
拓真は電話を切って、斉藤を見た。
「斉藤さん、すいませんが、その人を応接室まで連れて行ってもらえますか。部長はもうすぐ戻ってくるそうなんですが、俺が行くまでその人を見張っていてほしいんです。俺はまず先に、彼女を医務室に連れて行くので」
「今の電話、部長……?」
斉藤は困惑顔で拓真を見た。しかし、考えるのは後にしようとでも言うように軽く頭を振り、真顔になって頷いた。
「分かった。とにかく部長に話すってことだな。――ということだ。ほら、行くぞ」
太田は拓真に殺気だった目を向けたが、斉藤に腕をつかまれ、引きずられるようにして資料室を出て行った。
二人が行ってしまってから、拓真は私の頬にそっと手を触れた。
「恐かったよな。とにかく医務室で手当してもらおう」
「これくらいなら、自分で冷やせば大丈夫だから」
「いや、念のためにちゃんと見てもらおう。医者の診断をもらうことができれば、証拠にもなる。証拠と言えば――」
拓真は言葉を切り、天井の角の方に目をやった。
「今の様子は、あれに記録されているかもしれないな」
「あ……」
太田だけではなく私もまた、あまりにも突然のことに、監視カメラがあることを忘れていたが、もみ合っていた場所からしてその可能性は高い。
「碧にしてみれば、そんな映像、他人に見られたくないだろうけど……」
拓真は迷うように瞳を揺らしたが、私を申し訳なさそうな目で見て続けた。
「場合によっては証拠として使うことになるかもしれない」
本当は、自分が乱暴されている様子が写っているのなら、すぐにも削除してほしい。でもこれが、太田との問題を解決するための一手段となるのならと、私は少しだけ迷った末、頷いた。
「分かった」
「ありがとう。ごめん……。できるだけ最終手段にするから」
「謝らないで。私のことを考えてのことなのは分かってる。それに、拓真君なら絶対に悪いようにはしないでしょ?それから……」
私は腕を伸ばして彼に抱きついた。今は彼にぎゅっと抱き締めてほしい。
「助けに来てくれてありがとう。すごく嬉しかった」
拓真は私を抱き止め、それから悔やむように言う。
「でも、もっと早く駆けつけていれば、こんな痛い思いをさせなくて済んだのに……」
「これくらいで済んだんだから、もういいの」
腕を緩めて見上げた拓真の頬が、私の言葉に少しだけ和らいだように見えた。
彼はもう一度私を強く抱き締めてから訊ねた。
「ここでの用事はもう済んだんだよね?」
「うん」
「じゃあ、今日はもう早退しよう」
「早退?でも……」
拓真はあやすかのように私の背を撫でながら言った。
「どうせあと一時間ちょっとだろ。それにこのことは、部長だけじゃなく、課長たちにも話すことになるだろう。この話を聞いた後に、終業時間まで仕事をしろだなんてこと、彼らは言わないよ。周りの皆んなには体調不良ということにすればいい。斉藤さんがうまく話してくれるだろうから」
「だけど……」
さらに言葉を重ねようとする私に、拓真は困ったようなため息をついた。
「碧はもう少し『いい加減』を覚えた方がいいかもね」
そう言って私から離れて、拓真はジャケットを脱ぎ出した。何をしているのかと戸惑っている間に、彼は私の体の前をそれで覆う。
何――?
訊ねる暇はなく、私はあっという間に彼の腕に抱き上げられてしまった。
焦っている私に拓真は諭すように言った。
「大人しくしていて。自分では気づいていないだけで、実は色々と消耗しているはずなんだから」
そうは言われても、絶対に重いはずだと恥ずかしくてたまらない。
「大丈夫だから降ろして。お願い」
「だめ」
拓真は甘く微笑み私を抱く腕にきゅっと力を込めた。私を胸に抱いたまま資料室を出て医務室へと向かう。
私は顔を隠して、拓真の胸にしがみつくように体を寄せた。他の人の目を気にしないではいられない。
私の様子を見た彼が苦笑交じりの声で訊ねる。
「恥ずかしい?それとも俺たちの関係がばれたらまずいって思ってる?」
「両方よ」
もごもごもと、しかしはっきりと即答する私を、拓真は困ったように見る。
「恥ずかしい方は我慢するか、ジャケットで顔を隠すとかしてもらえばいいと思うけど、もう一つの方は……。残念だけど、一部にはもうバレてるだろうな」
「え……」
私は狼狽えた。
「だって俺、君がいないことに気づいた後からは、割と普通に『碧』って呼んでたような気がする。少なくとも、一緒に来てくれた斉藤さんは気づいてるんじゃないかな」
そう言えば、資料室に飛び込んできた時もその後も、拓真は私を「碧」と呼んでいた。
「でも、もう知られても構わないんじゃないか?だって、あの人の件はきっと今回で片が付くはずだ。いや、今日で片をつける。それに、うちの会社は社内恋愛禁止じゃないだろ?」
「それはそうだけど……」
拓真は畳みかけるように言う。
「だったらいいんじゃない?秘密にしておかなきゃいけない理由は、もうないだろう?この際だから、君が俺の大切な人だってことを公にしたい」
「公って……」
大仰にも聞こえる単語に私は戸惑う。
拓真はくすっと笑う。
「別に大っぴらに宣言するっていう意味じゃないから安心して」
拓真は言いながら、すれ違う人たちの視線を気にも留めずにさらに足を速めた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!