俺は医務室に彼女を連れて行った。自分で歩くからという彼女の言葉はきかず、むしろぎゅっと抱きしめた。痛い思いをさせてしまったと、完全に彼女を守り切れなかったことが悔しかった。
医務室にたどり着くまでに数名の社員とすれ違う。皆、何事かという目で見て行った。この後噂が広まるかもしれないが、俺が誰であるかも、恥ずかしさに顔を隠している彼女が誰であるかも、どうせ分からないだろう。とにかく今優先すべきことは、彼女の手当だ。
医務室に入って行くと、部屋の中は無人だった。灯りはついているから、少し席を外しているだけだろう。俺は碧をベッドの上に下ろした。
その時背後でドアの開く音がした。
振り向くと白衣姿の女性が立っていて、俺を見るなり軽く驚いたような声を上げた。
「あら、常務じゃない。どうしたの?どこか具合でも悪いの?」
「え?常務って何のこと?」
内心「しまった」と思った。すぐさま女性に向かって目くばせする。
――その呼び方はやめてくれ……っ。
碧が混乱したような顔で、俺をじっと見上げている。答えを求めているのが分かった。
女性に悪気はないのが分かってはいても、恨めしくなる。いや、いずれ公にするにしても碧にはまだ知られたくないと思っていた。どうせなら自分の口から前もって説明したい。
女性は俺の目くばせと微妙な表情に気づくと、なるほどというように軽く目を細めた。足さばきよく歩いてくると、俺の前で足を止めて軽く首を傾げた。
「具合が悪いのはそちらの人?じょ、いえ、拓真君の陰になって見えなかったわ」
女性は俺を押しのけるようにして、碧の前に立った。
碧はというと、まだ戸惑った顔で俺を見ている。
俺は軽く咳払いをすると、碧が今最も知りたいと思っているだろうこととは別のことを口にした。
「この人は、うちの産業医の高階絵未子先生。俺の年上の従姉なんだ」
絵未子は不満そうな顔を俺に向けた。
「年上ってのが、ひと言余計なんだけど」
彼女は元々某医療法人で勤務医をしていたのだが、結婚、出産を機に医者をやめていた。しかし、ある程度子育ても落ち着いてきたからと言って、改めて勤務先を探していた。そんな時にタイミングよくここの医務室に空きが出て、それ以降ここで働いている。
「それで、絵未子さん。彼女を診てやってほしいんだ。実は……」
俺は碧の肩を抱き、少しだけ声を落とした。
「彼女、さっき同僚に乱暴されたんだ」
絵未子の眉がきっと上がった。
「乱暴って、何よそれ。……ん?」
絵未子は身をかがめて、碧の顔をじっと見た。
「この頬、叩かれたの?腫れてるわね。それに、これ」
絵未子は碧をじっと見つめる。
「唇も切ったのね」
「はい。たぶん、叩かれた時にだと思います……」
痛々しい様子の碧に、絵未子は優しい目を向ける。
「ちょっと手首も見せてくれる?あぁ……強くつかまれたのね。痕が残ってるわ。大変な目に遭ったのね」
俺は絵未子に訊ねた。
「自分で作った痕じゃないってこと、証明できる?」
「そうね……。他人から受けたもの、って判断できるわね。えぇと……」
「総務課の笹本碧さんだ」
「よ、よろしくお願いいたします」
碧は慌てたように頭を下げた。
そんな彼女に、絵未子は優しく、けれどきっぱりと言った。
「笹本さん、顔色が悪いわ。ここで横になっていなさい」
「いえ、でも、やっぱり仕事に戻らないと……」
まだ言ってる――。
こんな時だというのに、彼女は真面目さ全開でそんなことを言う。
俺は苦笑を浮かべた。眉間にしわが寄ったのが分かる。
絵未子は腕を組み、俺と同じように眉根を寄せた。
「そんな顔をしている人を、仕事に行かせられません。それに、他にも外傷だとかがないか、念のために診察させてほしいの」
俺も脇から碧に言う。
「先生の言う通りにして、ここで休ませてもらって?さっきも言った通り、今日はもう早退って伝えておくから、俺が迎えに来るまでここにいて。絵未子さん、彼女のこと、頼めるよね?それから、診察が終わったら診断書を書いてほしいんだ。彼女を迎えに来た時にもらうよ」
「了解。分かったわ」
「ありがとう。よろしく頼んだ。それじゃあ、碧。終業時間が過ぎた頃に迎えに来る。それまで大人しく休んでいるんだよ。分かった?」
「……うん。分かった」
ようやく諦めたように頷く碧を見て、俺はほっとした。彼女のことはもちろん心配なのだが、この後には大事な局面が待っている。傍についていてあげられないのは歯がゆいが、絵未子に任せておけば大丈夫だろう。
後ろ髪引かれるような思いで医務室を出ようとした俺を、絵未子が見送りに出る。
「もしかしてあの子、拓真君の彼女なの?」
声を潜めて言うその口元に、にやにや笑いが微かに浮かんでいるのが見えた。
「そうだよ。とても大事な人なんだ。だからよろしく頼むよ」
俺は真顔で言うと、足早に医務室を後にする。
さっさと決着をつけてやる――。
俺は拳をぎゅっと握りしめながら応接室へと向かった。
時間的にも大槻はすでに戻ってきているはずだ。
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