◆影彦
山の端に日が触れる頃、影彦の胸はぎゅうと痛くなる。
影彦は幼い頃、夜が来ることが嫌で仕方がなかった。自分と、大人たちしかいない家に帰らなければならないことが、どうしようもなく悲しくなる瞬間があった。
そんな気持ちに支配される頃、絹香はいつも紅娘山まで迎えに来てくれた。
彼女が迎えに来ると、影彦はようやく帰ろうと思えた。
「なんで絹香はここに来ると、手を合わせてるんだ?」
絹香と山から帰る途中、彼女はいつも同じ場所で手を合わせた。
その姿があまりにも切実に見えたので、影彦は絹香に問うた。
「ここは水子沼(みずこぬま)というんです。だから、手を合わせているんですよ」
「水子って、暁闇(ぎょうあん)?」
影彦の双子の弟の名は、暁闇だった。
生まれて五ヶ月ほどで死んでしまった暁闇は、水子(みずこ)と呼ばれていることも影彦は知っていた。
「そうです。暁闇様や、生まれることができなかった子ども。幼いままに天に召された子どもたちのことです。この沼は、私たちが毎朝手を合わせている地蔵堂(じぞうどう)と同じような存在であると、私は思っております」
絹香は毎朝、黒瀬家の庭の端にある地蔵堂に熱心に手を合わせていた。
彼女を真似て、影彦も毎朝そうするのが日課になっていた。
――何度もいうが、あれは事故だ。あなたのせいじゃない
――あなた一人に、赤子二人を任せていた私たちにも責任があるわ
――あの子の分もというわけではないが、引き続き影彦をよろしく頼む
影彦の誕生日が来る度に、両親は絹香にそんな言葉を掛けていた。
弟の暁闇は、不幸な事故で死んだ。
どうしようもないことだったと、みんなが口を揃えていった。
それでも両親も絹香も、今も深い悲しみの中にいる。
彼らの傷は、自分ではどうすることもできない。
暁闇にしか、癒せない。
影彦は幼いながらも、いつしかそう悟っていた。
そして自分ではなく、暁闇が生きていればよかったのにと、思うようになっていた。
暁闇がいないから両親はまっすぐに自分を見てくれなくて、暁闇がいないから絹香はいつも困ったように笑っている。
暁闇がいてくれたらよかった。
絹香と地蔵堂に手を合わせる度に、影彦は強くそう思った。
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