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ベルニージュは不機嫌そうに、建造されたばかりの要塞内部の回廊を進む。外部の歩廊を進むよりはましかと思ったが、北側が吹き曝しなのでほとんど寒さは変わらなかった。苛立ちは募るばかりだ。
魔導書を封印するための条件として、不滅公は話したいことがあるのだ、ユカリとレモニカはそう言っていた。条件があるのは当然想定内で、その取り交わしに参加することは望むところだった。問題は勝手に約束をとりつけたことだ。二人きりで、というのは想定外だった。それに、今は女の姿とはいえ、男なのだ。他の男ほど嫌悪感は抱かないが、心臓が言葉にならない言葉で痛いほど訴えている。
雑香の爽やかな香りが冷たい風に乗って届く。
「赤目、殿下に何の用かしら?」そう言って現れたのはフシュネアルテだった。
まるで待ち伏せていたかのように曲がり角から現れ、立ちはだかる。妹のイシュロッテも屍の二号もいない。一人きりだ。
「別に。ワタシの方に用はないよ。呼ばれたから来ただけ」
フシュネアルテの翠の瞳が真っすぐにベルニージュを見つめる。長い間、ただそうしていた。負の感情を隠す気はないようだ。
「ねえ、そっちこそ用が無いなら――」
「殿下のこと、どう思ってるの!?」
「どうって?」ベルニージュは不信感を顔に出して首を傾げる。「ワタシを殺しかけた第一印象を引きずってるけど。川に落とされてさ。フシュネアルテと初めて会ったのも、その時だったね」
それは正直とは言えない言葉だった。ベルニージュとて多かれ少なかれ自身の感情を揺さぶられてきたことには気づいている。元々男だったことを知った時の衝撃は今も残っていた。
言葉の真偽を測るようにフシュネアルテは聞こえない声で呟き、ベルニージュの方に一歩踏み出す。
「私は殿下をお慕いしてる!」と掠れた声でフシュネアルテは絞り出す。「気づいていただろうけど、はっきりさせておく。私は本気よ」
ベルニージュは気づいていなかった。国を失った屍使いの姫君が後ろ盾たる不滅公に付き従っているだけだと思っていた。
「何でワタシに言うの?」
「宣戦布告ってことよ!」そう叫んでフシュネアルテは走り去った。
ユカリたちに聞いていたラーガの執務室へとやってきた。扉を叩くと入室を許可される。室内は聞いていたよりもずっと広く、北極海を臨む窓と要塞の内部を臨む窓があり、どちらも巨大な透明の硝子が嵌め込まれている。そしてどちらにも長椅子が設えられている。絨毯は草原のように厚く、ここだけ春が到来したかのように温かな空気に満ちている。要塞に相応しい設備とは思えず、聞いていた間取りとも違い、部屋を間違えたのかとも思ったが、確かにそこにはラーガがいた。
ラーガは北の大窓に向かって長椅子にもたれかかっていたようだが、立ち上がってベルニージュを迎える。
「よく来てくれた。何か飲むか? 饗す者が色々と取り揃えてくれたんだ」
不滅公は部屋の端の机の上に並ぶ酒瓶らしきものを指し示す。
「いいえ。話を聞きに来ただけですし、呂律が回られなくては困りますので」
「そうか。……ん? 俺は強い方だぞ」
「まあ、お好きにどうぞ。お話なさりたいのは殿下ですし」
「好きな方に座ってくれ」
北と南の長椅子を指し示され、ベルニージュは南を選ぶ。何か試されているのだろうか、と懸念する。窓には要塞の内部空間、天井のある港湾か、あるいは船の無い造船所の如き広々とした空間が広がっている。
ラーガが隣に座り、酒杯を寄越した。
「飲まない、と……」言っていなかった。「言っていませんでしたね」
ベルニージュは注がれた赤い液体を一口味わう。毒や呪いなどない。酒精強化葡萄酒だ。ベルニージュは飲んだことがないが、ライゼンではよく作られていると聞いたことがあった。蒸留酒を加えた複雑な香りと甘みがベルニージュの神経に熱を帯びさせる。
「ライゼンのとは違うが、これも悪くない」とラーガはベルニージュの横顔を見つめて感想を言う。
その視線には気づいていたが、ベルニージュは窓の外の要塞内部を眺める。下の方で何か宴会でもしているらしく、使い魔が人間業ではない曲芸を披露していた。玉や短剣などの道具を巧みに操りつつ、空中に張り巡らされた縄の上や下をを蜘蛛か猿のように駆けまわっている。
「確か、ライゼンでは火酒を加えるのでしたか」そう言ってベルニージュはもう一口飲む。「……これが、何かは分かりませんが」
「シグニカの蜂蜜酒だ。あそこは蜂蜜酒をさらに蒸留したものを蜂蜜酒と呼んでいるからな」
わざわざライゼンにとって仇敵とも言える救済機構のお膝元、シグニカの酒を使ったのだという。その意味がベルニージュには掴みかねた。
「饗す者ならばライゼンの酒を用意させられたのでは?」とベルニージュは無意味な質問をしてしまう。
ちらりとラーガの方を見ると、色褪せたような金の髪の間で目が合い、ベルニージュの方は慌てて逸らす。
「出来るだろうが、わざわざ作らせたわけだ。意味ありげだろう?」
さっきから何もかもが意味ありげで苛立たしい、とベルニージュは心の中で毒づく。だが、実の所何も意味がないのかもしれない。むしろ無意味なものに翻弄される様を見て楽しむ、という悪趣味な意味があるのかもしれない。
「意味ありげと言えば」とベルニージュは話に沿って話を逸らす。「昔から変わらんな、お前は。ってどういう意味ですか?」
以前に言われたラーガの言葉だ。母の記憶を保持していた魔女シーベラの他に、ベルニージュはベルニージュの過去を知る者を知らない。自分自身も含めて。
「そんなこと言ったかな?」揶揄うようなラーガの言葉は確かに女性の声だが、深い井戸の底から響くような重々しい音色でベルニージュの鼓膜を震わせる。
「答えたくないのであれば、構いません」
ラーガは悪戯を成功させた子供のように忍び笑いをする。
「諦めるのか?」
「ワタシは手段を選ばない質なので。手段に拘泥することもありません」
ラーガは今度は敵を称える将のように重々しい声で笑う。
「素晴らしいことだ。策を蓄え、策を選ばぬ者に勝利の女神は微笑むものだ」そう言ってラーガもまた微笑んで見せた。
「長らくその微笑みを得てきたようですね」
「そうとも言えん」そう言ってラーガはベルニージュの耳に口元を寄せる。「だがその微笑みを追い求めてきたのは確かだ」
「……多くを知っているようですね」とベルニージュは呟く。
「そうでもない。お前が覚えられない記憶のいくつかだ」そう言ってラーガは身を離す。「悪かったな。元より全て話すつもりで呼んだのだ。でなければ、次へ進めぬ」
記憶は直ぐに抜け落ちるわけではないが、ベルニージュは念のために筆と墨と覚書用の紙片を取り出す。ラーガはそれを待ってくれていた。
「まず、お前の記憶を直接奪ったのは、お前自身だ」とラーガは告げた。
しかしベルニージュはこれを書き留めなかった。記憶を取り出す魔術を使えるのだから、元より容疑者の一人だった。
「だが俺が野心から命じたのだ。記憶と共にその身に宿る魔力をも取り出せることを知ったのでな」
ベルニージュには信じ難い話だった。とても自分のことを話しているとは思えなかった。
「ワタシがその野心に従った動機はなんですか?」
「……さあな。はっきりと話してはくれなかった。俺はお前の父母と他の四姉妹の記憶を求めた。より縁深い者の記憶はより強い力を宿すのだという。しかし失敗した、らしい」
「母の記憶は偶然近くにいた魔女に宿ったようですね」
ベルニージュが取り戻せたのは魔女シーベラに宿っていた記憶だけだ。
「そうだったのか」言葉とは裏腹にラーガは知っていたかのように頷いた。「他の記憶、父と姉妹の記憶は予定通りに取り出し、俺が受け取った。今も本国に存在する」
「そして馬鹿々々しいことに自分自身の記憶を取り出す失態をし、しかも失くした、と」ベルニージュは乾いた笑いを零す。
「いや、それは最後だ。その前に、お前は俺の記憶も失った」
ベルニージュはしっかりとラーガを見つめつつ、怪訝な表情を浮かべる、
「殿下のことは記憶に残りますが」
「うむ。お前ほどに魔法に長けている訳ではないから推測になるが、おそらくその後に起きた事故が原因だろう。お前の中のラーガの記憶は、一度は俺自身に宿ったのだ」
ベルニージュは重大な自身の過去より、その事故の顛末に子供のような好奇心を抱いてしまう。ベルニージュの中のラーガの記憶がラーガに宿る、それは思いつきもしなかった実験だ。単純に結末が気になったのだった。
「どうなったのです? その場合、何が起きるのでしょう?」
単純に考えれば、ベルニージュのラーガに関する記憶が、ラーガ本人の肉体を乗っ取る。つまりラーガがラーガのふりをする。訳の分からない事態だが、まさか目の前のラーガの人格はラーガ本人ではないというのだろうか。
「ラーガの記憶は俺の魂を半分奪って逃げ去った」とラーガは忌々しげに呟いた。
「半分、ですか。……まさか!?」ベルニージュは推測に驚き、仰け反る。
「ああ、俺が女になった原因がそれだ。つまり男性性のようなものごと奪われたらしい」
もはや自分の記憶の顛末よりも気になってしまい、ベルニージュは様々に考えを巡らせる。魂について。肉体について。そして深奥について。
「殿下は両性具有だったのですか?」
「いや、少なくとも外見はずっと男だった」そう言ってラーガは両腕を曲げて力こぶを見せつける。
少なくとも今でも一般的な女性よりは筋肉がある。
「我々の知られざる魂の機序があるのでしょうね」ベルニージュは己の未だ知らない領域を前にして喜ぶ。「魂自体がそういうものだったのか。あるいは魂を奪われたことで、肉体にも影響を及ぼしたのか。……あ! それじゃあ、もしかして」
「そうだ」ラーガはくたびれたかのように長椅子に身を預ける。「ヘルヌスに探させていたのが俺の男性性、ヒューグと名乗っているらしいが。奴のことは覚えているのか?」
「今は。ですが、検証したわけではないので、覚書のお陰かもしれません。それに、ワタシもユカリに聞いただけで、直接会ったことはないので大したことは知りません。それより大丈夫なのですか?」
ラーガは乾いた笑いを零す。「大丈夫じゃないから探し求めているんだが」
「そうじゃなくて、ヘルヌスって救済機構に捕まってたんですよね? クヴラフワでは、殿下の命でシシュミス教団を偵察していると言っていましたが、実際には救済機構に利用されていたのだと聞きました」
「俺の魂の半分を機構が所持しているかもしれない、ということか」ラーガは落ち着き払った表情と声色でそう言った。「その可能性には気づかなかったな」
「元に戻りたいんですよね?」とベルニージュは疑う。
「ん? ああ、もちろんだ」と言うラーガの声色は虚ろに響く。
「なんです? 妙に軽いですね」
その時、外から浮かれた宴会とは種類の違う騒ぎが聞こえ、二人は立ち上がって窓に近寄る。宴の途中だったようだが、城門が僅かに開かれ、戦士たちが出て行っている。何か異常があったらしい。
「とにかくワタシは殿下に大きな貸しがあるのだと分かりました」そう言いながらベルニージュは扉に向かう。「魔導書は我々がここを出て行くときに頂戴いたします。いいですね?」
その要求には勝算があった。今までの話からもラーガが使い魔を重視していないことが分かったからだ。
「ああ、構わん。元よりそのつもりだ」
「そうですか? なら良いんですけど。それは……、まあ、良いですけど」
ベルニージュが扉に手をかけた時、ラーガに呼び止められる。
「今の内に言っておくが、元に戻りたいからヒューグを追っているわけじゃない」ラーガの言葉に、ベルニージュは思わず、扉から手を離して振り返る。その真意は想像もつかなかったからだ。
「じゃあ、どうして?」
「お前に、ベルニージュに、俺のことを思い出して欲しいからだ」
意味ありげなその言葉の意味はベルニージュにもはっきりと伝わった。