伊武はとあるビルの屋上に居た。眩しいばかりのネオン、その間を途切れることなく蠢く人々の影。それらを見つめる彼の瞳にも、その光が反射している。そして伊武はポケットから徐ろにスマホを取り出す。電源を付けると表示される何事も無い事務連絡の通知。その一つ一つに視線を移しながらまた電源を切る。
そして、彼はネオンを見下ろす。一息つき、ポツリと呟いた。
『………疲れてるのかもねぇ』
そして彼は屋上の手すりから夜空の暗がりへと身を乗り出す。彼の体が空へと投げ出される直前、彼の身体を強く引き戻した者がいた。
そのまま、その何者かと共に伊武は後ろへと倒れる。彼は驚いたように目を丸くした。
『久我…くん?』
落ちる直前、彼の身体を引き戻した張本人。それは京極組の久我だった。久我は今に泣きそうな表情で伊武へ問いかける。
『一体、何しようとしてたんですか…?』
彼の手は、久我の肩を掴んでいる。痛いほどに込められた力が久我の困惑を体現している様であった。
『………分からない…何でこんな事、しようと思ったんだろうねぇ…』
伊武は眉を顰めながら軽く微笑む。しかし、その表情と裏腹に、彼の瞳には光など宿っていない。その瞳を見た久我は、伊武と目線を合わせる。
『教えてください。……何か、あったんですか?同じ組の人間ではないけれど…俺はあんたの力になりたい。』
久我の真っ直ぐな瞳を見つめた伊武は微笑みを消した。彼は、目を伏せて言葉を述べる。
『自分ではどうしようもないぐらい、疲れていてねぇ…街並みを見て、ふと思ったんだ。全て終わりにしてしまえば疲れないだろう、ってねぇ。ただそれだけ。…本当に、下らない事なんだよねぇ。』
伊武は、久我へと視線を向けた。と同時、彼は息を呑んだ。眼の前の光景が信じられなかったのだ。久我は、泣いていた。それは、当人も気づいていなかったのだろう。頬に軽く振れ、少し濡れた指先を久我は少しばかり見つめていた。そして彼は、伊武を強く抱き締めた。突然の事に、伊武は動揺する。そんな伊武の様子は目にも留めず、久我は口を開いた。
『下らなくなんてないです。人間誰しも疲れる事はあるし、それは伊武さんが頑張った証拠だ。あんたが死にたいと思うなら、俺は構わない。あんたの人生です。好きにすればいい。けれど…俺は』
久我は深く息を吸う。伊武を抱きしめる力はより一層強くなる。
『あんたが孤独に死んでいくのも…なにもかも抱え込んだまま、死んでいくのも許さない。』
久我の言葉に、伊武の瞳から涙が溢れ、頬を伝う。久我は抱き締めていた腕を解き、伊武を真っ直ぐに見つめる。
『俺…思ったんです。あんたは、凄く強い。けれどその分無理をしている事ぐらい、ずっと分かってました。誰にも頼らず、全て一人で終わらせる。だから…死ぬ時もこの人は一人なんだろうなって…感じた。けれど…それはあまりにも切なくて…あまりにも哀しくて…』
久我の言葉に、伊武はこう問い掛けた。
『何で…悲しいと思う?俺が死んでも、久我くんに迷惑は掛からないよねぇ…』
久我は、その言葉を聞いて目を丸くする。途端、涙を流しながら困ったように笑った。
『そうやって死なれると、俺が悲しいんです。残された人間は、辛いんです。死んだ人間は、その時点で何も考えることができなくなる。哀しさなんて感じない。けれど…残された人間はその後も苦しむんです。愛する人に死なれたら尚更…何か出来ることは無かったのかと、後悔や心を抉られるような錯覚さえ覚えます。だから…』
久我は、一息ついてこう述べた。
『これは傷つきたくない俺の単なる我儘で…エゴ、なんですよね。』
彼は絶えず涙を流す。
『それでも…あんたには分かってほしいんです。あんたを大切に想う人がいること。そして…あんたがいなくなることで、永遠に苦しむ人がいることを。…俺の言葉を受け取らなくたっていい。俺の事を嫌いになってもいい。けれど…あんたを大切に思ってくれる人を…あんたが大切に思っている人を…悲しませるのは、やめてあげなよ。』
伊武は限界だった。止まりかけていた涙が再び次から次へと絶えず頬を伝う。声を殺して泣く姿は、迷子の幼子とよく似ていた。久我はそんな彼を再び抱きしめ、頭を撫でる。いつの間にか夜明けが来ていたようで、夜と朝が混合したような不思議な色合いをした空が2人を優しく包み込んだ。
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