鬼堂楽園奇譚 第四章「北鬼、絶刀の間合い」
境橋に、静寂が落ちた。
重力の破裂で砕けた石片が、まだ宙を漂っている。
その中心に、竹爺が立っていた。
「……ここからは、一刀で決める」
老いた声なのに、楽園で最も重い“斬気”が宿っている。
朗は、なぜか背筋が冷たくなった。
(あれだけ血を吸ったのに……身体が震えている……?)
刀が震えているのではない。
朗自身が、竹爺の存在に本能で怯えていた。
雷花が小さく呟く。
「……竹爺ってさ……本気じゃないときは『歩幅が軽い』のよ。
でも今は——」
酒鬼が頷く。
「“足音が消えてる”。
本当の殺気を出したときだけ、ああなる」
青蘭は鎖を握りしめたまま、唇を噛む。
「……朗だけじゃない。
朗の背後の“影”も、竹爺の刀に怯えてる」
朗はゆっくりと刀を構え、息を整えた。
その背中に、黒い霧がまとわりついている。
まるで何かが囁いているように。
——……ァ……ァァ。
朗の表情が苦痛に歪む。
(……声が……刀の中の……“何者か”が……俺を急かす……)
「もっと……血を……って……!」
竹爺がわずかに目を細めた。
「お前さん。
その刀の声に飲まれる前に、早う構えんか。
でないと、ほんとに死ぬぞい」
朗は歯を食いしばった。
「黙れ……!
その余裕の態度……全部斬り裂いてやる……!」
竹爺が静かに抜刀する。
刃がわずかに月光を受けただけで、境橋の空気すべてが震えた。
雷花は背筋を凍らせた。
「あの距離……“どこでも斬られる”やつだ……!」
酒鬼は珍しく酒を飲む手を止めていた。
「竹爺の間合いはね……
“世界”そのものが斬れる範囲、ってことよ」
朗は一瞬、息を呑んだ。
(……剣士じゃない……化け物だ……!)
◆刹那の攻防
朗は考えるよりも先に動いた。
雷のように踏み込み、血を吸わせた刀が赤黒い弧を描く。
「消えろ!!」
その瞬間、竹爺の姿が消えた。
——いや、消えたのではない。
朗の視界が追いつけない速度で、竹爺が動いたのだ。
背後から、老いた声。
「悪いがのう……わしの間合いに入った時点で——」
朗の背に寒気が走る。
竹爺が刀を振るう。
「“終い”じゃ」
ただ、それだけ。
ただ刀が空を切っただけのように見えた。
しかし次の瞬間——
境橋の石畳が縦に二つに割れた。
朗の身体が、血飛沫とともに吹き飛ぶ。
「ウッ!!」
空間そのものが斬られていた。
空気の壁を斬り飛ばされたような衝撃が、朗の全身を引き裂く。
青蘭が叫んだ。
「空間切断……!?
竹爺、本気で怒ってる……!」
雷花は震えていた。
「あんなの……避けられるわけない……」
朗は地を転がりながら、なんとか体勢を立て直す。
しかし——
(……遅い……!)
竹爺の姿が、もう目前にあった。
「次で終わりじゃ」
朗は本能で叫ぶ。
「来い……!!
もっと……血を……!!」
朗の刀が悲鳴のように開く。
溢れ出た黒い霧が、竹爺の斬撃の軌道を“読んでいる”。
竹爺の眉がわずかに上がる。
「ほほ……刀の中身、とうとう“表”に出てきたか」
その瞬間、朗の背後に人影のような“黒い顔”が浮かんだ。
目のない顔。
口だけが裂けている。
——■■■■■■■■■。
竹爺以外、誰もその姿を認識できなかった。
竹爺はその影に向けて、静かに呟く。
「……隠れておるつもりか、黒幕よ」
影が一瞬身じろぎする。
朗は気づかない。
ただ刀に飲まれていた。
「もっと……もっと……!!
強く、なれる……!!」
竹爺は刀を構え、深く息を吸った。
「……ええじゃろ。
その望みごと——斬り伏せてやる」
◆絶刀・鬼断
竹爺が踏み込んだ瞬間、空間が裂けた。
境橋の世界が、ひとつ“線”となって割れる。
彼の一撃は、朗だけでなく、背後の“影”ごと斬り裂くためのもの。
朗が振り向くより速く、竹爺の刃が落ちた。
——しかし。
闇の中から、何かが竹爺の刀を受けた。
真っ黒な“手”。
歪んだ重力のような、ねじれた空間のような、巨大な手。
竹爺の目がわずかに細まる。
「おお。
今の一撃を、受けてきよったか」
影は声なき声を発する。
——■■■……■■。
その意味は分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
朗の背後には、竹爺の一撃すら受け止める何者かがいる。
影は裂け、霧のように消えた。
しかし“去った”というより、
どこかへ引き戻されたような感覚だけが残った。
竹爺は刀を納め、朗を見下ろした。
「お前さん……やはり、ただの駒か」
朗は地に伏しながら、それでも立ち上がろうとする。
「まだだ……まだ俺は……!」
竹爺は静かに首を振った。
「ええ加減にしとけ。
命まで落とす必要はなかろう」
朗は崩れ落ちた。
刀だけが、なおも黒い息を吐いている。
竹爺は刀を見つめ、低く呟く。
「……黒幕は、この刀を通しておる。
鬼堂楽園を潰すために、外から手を伸ばしてきとる」
酒鬼が静かに問う。
「……それ、何者だと思う?」
竹爺は境橋の遠く、闇の向こうへ視線を投げた。
「分からん。
ただ——“鬼よりも強い存在”じゃ」
青蘭と雷花が息を呑む。
朗の背後に潜む影は、まだ名も姿も明かさない。
しかし楽園の四鬼は気づいていた。
——これは侵入者一人の事件ではない。
——もっと大きな“何か”が動き出している。
・つづく
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