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平和な教室
春の陽ざしが差し込む教室に、チョークの粉の匂いがただよっていた。二年生の国語の授業。黒板に書かれた文字を先生が指さし、子どもたちの声が重なって響く。耳の聞こえない少年は静かにノートをとっていた。隣の席の友達、Aくんがときどき身ぶりや手話で説明してくれる。それが少年にとっての日常だった。
窓の外では、青空に小鳥の群れが飛んでいく。風に揺れるカーテン、校庭の砂ぼこり、遠くで笑う同級生の声――すべてがいつも通りで、安心できる時間。だがその日、平和は突然途切れた。
戦争の始まり
遠くでサイレンが鳴りはじめ、教室の空気が一瞬で張り詰める。「空襲警報だ!」と先生が叫び、子どもたちは動揺した。椅子がひっくり返り、児童たちが一斉に立ち上がる。少年にはその音が届かない。何が起きているのか分からず、座ったまま呆然としていた。Aくんが肩を揺さぶり、必死に手話で伝える――「戦争が来た!逃げろ!」胸の奥を冷たいものが締めつけた。
一方、目の見えない少女は耳をふさぎたくなるほどの大音量に震えていた。立ち上がろうとしたが、教室は逃げ惑う生徒であふれ、何度もぶつかり押され、床に倒れこんでしまう。「だれか……助けて……!」声を張り上げても、周囲の子どもも先生も自分のことで精一杯。倒れたまま動けない少女のそばに、ひとりの少年が影のように差した。その少年こそ、耳の聞こえない彼だった。
出会いと気づき
少年は床に倒れている少女に気づく。少女の瞳は大きく開かれているのに、どこも見ていない。焦点が空をさまよっていた。(見えていない……?)胸の奥がぎゅっと痛む。まわりの子どもたちはもう出口に向かって逃げている。助ける人は誰もいない。
迷わず少年は少女の手を握り、立ち上がらせた。「いっしょに行こう」――声にはならなかったが、その力強さだけは伝わった。少女は最初戸惑ったが、やがてその手の温かさにしがみつき、少年に身を任せた。片手で少女を引き、もう片方でバランスを取りながら校舎を駆け抜ける。背後で爆撃音が響き、瓦礫が崩れ落ちる。耳には何も届かない少年だが、少女の震える体が危険を知らせ、互いに補い合いながら前に進んだ。
命がけの避難
階段を下り、校庭に出た瞬間、空が割れるような轟音が鳴り響く。少女が悲鳴をあげた。「くる……爆弾が!」少年には音は届かないが、少女の体の震えで危険を察した。反射的に少年は少女を抱きかかえ、自分の体で覆いかぶさる。次の瞬間、世界が白くはじけ飛んだ。爆風が襲い、ガラスが一斉に砕け散る。瓦礫が少年の背中を打ちつけ、頬を切った。少女は目が見えないため何も見えないが、少年の心臓の鼓動と腕の震えを感じた。(守ってくれてる…)痛みが走り、少年の顔には消えないアザが残った。
避難所の絶望
かろうじて生き延びた二人は、町外れの避難所にたどり着いた。しかしそこには、何もなかった。建物は跡形もなく崩れ、黒い煙が空へ溶けていく。床のタイルも壁も、すべて吹き飛んだように消え去り、まるで最初から存在しなかったかのようだった。「……誰もいない」少女の声が震えた。少年はその声を理解できずとも、表情と口の動きから意味を悟った。大人に助けを求めても無視され、二人は結局、自分たちだけで生きることを決意した。
離別と髪飾り
戦争が終わり、二人は孤児院に送られ、離れ離れになった。離別の直前、少年はポケットから小さな紙袋を取り出した。なけなしのお小遣いで買った髪飾りを少女に渡す。「これ、ずっと大事にして」声は出せないが、指先と瞳がそう伝えていた。少女は胸に抱きしめ、涙をこぼした。「絶対に忘れない……また会えるよね」しかし、大人たちに引き離され、二人は別々の道を歩む。
すれ違い
月日は流れ、中学生になった二人は街中ですれ違う。少女は杖をつきながら歩き、背後から聞こえた足音に心を高鳴らせる。(……この足音、どこかで…)振り返っても視界は闇のまま。少年も人混みの中で小さな光が揺れる髪飾りに気づくが、すぐに見失ってしまう。ほんの数メートルの距離で、確かにすれ違っていた。だが、運命の糸はまだ結ばれない。
高校での再会
高校に進学した春のある日、制服姿の二人はついに再会する。少女は髪に小さな飾りをつけ、少年は頬のアザを隠さず歩いていた。少年の視線は髪飾りに止まり、少女の耳はあの頃の足音を識別する。廊下ですれ違いざま、少女の指先が少年の頬に触れる。ザラリとした感触。かつて自分を覆い守ってくれた傷跡だった。「……あなた……なの?」少年は声を出せないが、震える唇で名前を形作り、涙をこぼす。少女も髪飾りに触れ、微笑んだ。「やっと……会えたね」
絆の確認と未来
長い年月を越えて、二人の手は再び固く結ばれた。戦争で失ったものは数え切れないが、失われなかった絆がここに生きている。二人は互いに心を通わせ、ようやく未来へ歩き出す。やっと、二人で一緒に生きていけるのだと――。