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猫翔太の時も思ったけど、超常現象が起きた時の、人智の及ばない感じが本当に上手い。 神のみわざ、って思っちゃう。

第十八章 ひとつ分の沈み
ベッドに沈む体。
一人分しかない沈み。
温もりを探して、手のひらを彷徨わせた。
確かにあったはずの温もり。
さっきまで、そこにあったはずの。
俺が夢を見ているのか——
ベッドボードに置かれた俺の指輪が、
その考えを、静かに払い除けた。
それが現実だと。
阿部ちゃんに電話を入れてみる。向こう時間を確認せずに掛けてしまい、慌てて切ったものの、すぐに折り返しがかかってきた。
亮平📲「おひさ〜どした?」
蓮 📲「最近……変わったこととかない?気になったこととか」
しばらくの間――
言葉を選んでいるのか、言いあぐねているのか、俺には察しがつかなかった。
亮平📲「特にはないけど?ただ最近……やたらアイスの減りが早い」
蓮 📲「はぁ?……何それ…………ふふっ舘さんと翔太が二人で食べてるからだろっ」
また、一拍のずれ――
亮平📲「えっ?涼太と……ダレ?」
一瞬、呼ばれるはずの名前が、
空白になった気がした。
そこにあるはずの音が、
思い出されないみたいに。
亮平📲「何?アイツ、まさか浮気してるの?」
世界が一瞬止まった気がした。背中を冷たい汗が流れた。
「翔太!しょっぴーだよ!」
ムキになって言う俺に、
「あぁ……しょうた……そうかそうねそうだった――」
翔太の名前が、
さっきより遠い。
それだけなのに、
胸の奥が、妙に騒がしかった。
蓮📲「翔太のこと……よろしく頼むよ阿部ちゃん」
悲痛な声が、一人きりの部屋に響いた。
通話が切れたあとも、しばらくスマホを耳に当てたまま動けなかった。
「大丈夫だよ、俺に任せて」その一言が、聞きたかった。
雲に覆われた空を眺めた。青の居ない空が、不安を煽った。
ベッドに横たわった。
無意識に、ベッドの片側を避ける。
いつもなら、翔太が先に潜り込む場所だ。
何度も一緒に眠ったはずのベッドで、
そこが自然に空いていることに、
少しだけ胸が詰まった。
ベッドボードの指輪を取るといつものネックレスに通した。
海外の現場では、その方が都合がいい。
それだけのことのはずなのに、
指先が、少しだけ落ち着かなかった。
部屋を出る前、テーブルの上のタンブラーが気になった。
翔太は寝る前必ず水を飲む。
昨夜、いつものように翔太がキッチンに立って、冷蔵庫から取り出したミネラルウォータを俺のタンブラーに注いでいた。
うめぇなんて、ビールで喉の渇きを潤すように笑っていた姿がほんの数時間前までそこにあった。
タンブラーを両手で包み、喉を鳴らして、空になった底を軽く叩いた。
――コツン。
乾いた音に、満足したみたいに小さく笑った。
確かに、飲みほした。
朝を迎えたホテルの部屋に色の薄い白い光が、テーブルの縁をなぞった。
タンブラーを手に取る。
――満ちている。
縁まで、静かに。まるで、最初から
誰も触れていなかったみたいに。
減った形跡は一滴もない。
俺は触れていない。
夜のあいだ、この部屋で水に触れたのは――
名前にしようとした瞬間、言葉が滑った。
ガラスの向こうの水面だけが、何も知らない顔で揺れている。
指先には翔太を愛した、冷たい輪郭が残っているのに、
テーブルに置かれたタンブラーの水は一滴も減っていなかった。
ベッドの右側は、誰も使っていない形に戻っている。
さっきまで、ここにいたはずなのに。
首に下げられた指輪だけが、重い。
現実は、そこにしか引っかかっていないみたいに。
日常は巡る。
忙しく、残酷に――
新しいことの連続に、心は否応なく前を向かされた。
強い志を持った役者に囲まれて、沢山の学びと刺激がある。
それを吸収しようと必死だった。
カメラの前に立つと、不思議と集中できた。
役の名前で呼ばれ、役の感情で怒鳴り、笑い、立ち位置に戻る。
〝蓮〟ではない時間が、俺を支えてくれていたのかもしれない。
カットの声がかかるたび、
無意識にスマホを探してしまう癖だけが、消えなかった。
ホテルの部屋に戻り、冷蔵庫を覗くと、いかにも二人分の食材が並んでいる。翔太が好きなイクラと、嫌いなトマトが同居する冷蔵庫を見てどちらにも手を伸ばさず、冷蔵庫を閉めた。
触れなかったのは、食材じゃなくて、
そこに残っている生活だった。
空腹ではなかった。
ただ、誰かと分ける前提の食事を、
一人で始める気になれなかった。
もっと早く彼の異変に気づくべきだった。
遠く離れた俺に、何がしてあげられるだろうか?
その前に。
何が起きてるんだよ。
窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていく。
見知らぬ街の夜は、どこか他人事で、
それが今の自分に似ている気がした。
そんな事を毎夜考えながら、ベッドに横になる。
体は自然と、片側に寄った。
空けたままのスペースが、
誰のものだったかを、考えないようにして。
まだ何も失っていない。
そう言い聞かせながら、
なぜか間に合わない気がしていた。