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(あーーーー癒されたぁ)
純朴な若い男性郵便局職員とのひと時は、水平線が見渡せる海岸で透き通った潮風に身を委ねたような爽快感があった。
(ヒーリング効果って言うのかな、癒されたわーーー)
スーパーマーケットでニラの束を吟味している時も、パッケージされた牡蠣を選んでいる時も玉井真一の笑顔の八重歯が脳裏を|掠《かす》めた。
(な、なにを考えているのよ!私にはたっちゃんがいるじゃない!)
それでも玉井真一の指先が真昼の手のひらに触れた瞬間の初々しい仕草を脳内で|反芻《はんすう》し、思わず口元を綻ばせた。
(とっ、歳下じゃない!しかも未成年!犯罪よ、犯罪!)
真昼は真っ白い大根を握りしめて煩悩を消し去った。
(えーーーと、あと、買う物は)
そして買い物かごの中身を見て現実に帰る。
(たっちゃんにもあんな初々しい頃が)
真昼は五年間の記憶を掘り起こした。
(ーーーーえ、あれ?)
然し乍ら、龍彦の無邪気な笑顔が思い出せない。
(あれ?)
それどころか「ねぇ、たっちゃん」と声を掛けて振り返ると、心ここに在らずの龍彦を度々目にしていた事を思い出した。
(え、あんな顔、した事あったっ・・・け)
何処か遠くへと思いを馳せる龍彦の反応は薄く、真昼の存在に気が付くまで少々時間を要した。
(あの時、なにを考えていたの)
二人の交際は真昼が結婚に前のめり気味で龍彦はあまり関心を示さなかったが両家顔合わせ、結納、結婚と物事は順調に進んだ。
ーーーー挙式から二年
(まさか、私と結婚したくなかった、とか)
「いらっしゃいませ」
「はい」
「350円、280円・・・」
ピッツ ピッツ ピッツ
「合計3.850円となります」
「はい」
「150円のお釣りとなります」
「はい」
「ありがとうございました」
「はい」
買い物のマイバッグを取り出して大根を縦に入れる。
(まさか)
水物をポリ袋に入れようと持ち上げた瞬間、牡蠣のパッケージが人差し指を|擦《かす》めて横に細い傷が入った。
「痛っ!」
うっすらと赤い血が滲む。
(まさか、そんな筈)
龍彦が真昼に指一本触れようとしない理由。
(・・・無関心)
それはオンラインゲームに夢中になりスキンシップが疎かになっている訳でも性欲が乏しくセックスレスに陥っている訳でもなく、龍彦にとって真昼が《《愛おしい存在》》でもなければ《《愛すべき妻》》でもないのかもしれない。
(まさか、そんな筈、ない)
悲観的な思いに駆られた真昼の右手の荷物はずっしりと重かった。
「そんな筈はない」と首を振るがそれを打ち消すように波が押し寄せ「そうなのかもしれない」と目線が泳いだ。鼓動が高まり耳の辺りに熱を持った。
(たっちゃんに聞くの?なんて聞くの?)
こんな夜に限って交差点の信号機は青ばかりで気を鎮めて考える時間がない。もう直ぐ、その角を曲がればもう直ぐ自宅の駐車場が見えて来る。ウィンカーを左に上げる指に力が入らない。
(もう一周してから帰ろう)
自宅の裏には一方通行の<文豪の路>が|香林坊《こうりんぼう》の用水に並行して続いている。揺れる柳の枝を左に眺め石畳の上をハンドルを取られながらゆっくりと進んだ。
(もし、もし結婚した事を後悔しているって言われたら)
脇道から自転車に|跨《またが》った高校生の群れが飛び出し急ブレーキを踏んだ。後部座席の大根がゴロンと落ちた。
(言われたら如何するの)
武家屋敷の一方通行の小径をぐるりと周り、大野庄用水沿いに自宅へと向かった。右にウィンカーを落とす。後方発進、駐車技術に長けていない真昼のパールピンクの軽自動車は白い枠線を踏んで停車した。
(まさか、考え過ぎ、なにを暗くなっているの)
ピッ
それでも思い当たる節が多すぎて足取りが重くなった。
(・・・・あれ?)
玄関の鍵が開いていた。真昼は力無くパンプスを脱ぐと暗い廊下を進んだ。
(あーー、またゲームか)
リビングは暗いが続きの洋間から白い明かりが漏れていた。龍彦はオンラインゲームに没頭すると部屋の電気を点ける事も忘れてコントローラーを握り締めるのだ。
(洗濯物はもう諦めるか)
龍彦といつもと同じ遣り取りが始まる筈だった。
あ・・・ん
聞き覚えのない女性の声が耳に届いた。
(え、なに、たっちゃん《《そんなゲーム》》をやっているの)
真昼は龍彦が成人向けのオンラインゲームに興じているのかと思いリビングの扉の隙間からその様子を覗き見た。
(・・・・!)
龍彦の右手は股間で忙しなく上下し、自慰行為に耽っている事は明らかだった。確かに男性38歳、まだまだ性欲旺盛な年代だ。真昼との性行為がなければ何処かで処理しているとは思っていたがその姿を目の当たりにするとは思いも寄らなかった。
「・・・・んっ、んっ」
龍彦の生々しい喘ぎ声に足が|竦《すく》んだ。真昼はその後ろ姿に声を掛ける事も憚られ声を無くした。次に、フルスクリーンの画面に映し出された女性が発した淫雛な囁きに身体が凍りついた。
「た、たつ、龍彦」
その相手の女性はゲームアプリの架空の人物ではなかった。
(・・・え、如何いうこと、なの)
「|橙子《とうこ》、橙子先生!んっ!んっ!」
「龍彦、あっ、あっ」
名前を呼び合い互いの欲望を掻き立てる卑猥な行為に真昼の頭の中は真っ白になった。橙子と呼ばれる女性は龍彦の<先生>で《《そういう関係》》なのだ。
(オンライン不倫)
この関係がいつ頃から続いていたのか分からないが、真昼は龍彦に裏切られていた事にようやく気が付いた。ゆっくりと音を立てないように足元にショルダーバッグとマイバッグを置き玄関へと後ずさった。
「あ、あ、あ!」
「橙子先生、き、気持ち良い!?」
「いい、あ!」
目の前で激しい性行為が繰り広げられそれは続いた。真昼はゴム製のクロックスを履きそっと玄関扉のノブを握り後ろ手で締めた。
「・・・・・」
<文豪の路>の石畳、ポツポツと灯るオレンジ色の街灯。パタパタとクロックスの足音が真昼の背後から着いて来る。
「うっ」
真昼の頬に温かい涙が伝い、顎からポタリとブラウスへと落ちた。それは点々と染みを作ったが通り過ぎるサラリーマンの驚く顔など一切気にならなかった。
(たっちゃんが私に触れないのはあの女の人が居たから)
思わず声が漏れた。
「うっ、うっ」
真昼は携帯電話をポケットから取り出すとLINE画面をタップした。龍彦のアイコンを押す。
今から帰るね
それは数分間既読にはならなかった。今頃あの部屋では龍彦が絶頂を迎え体液をティッシュで拭き取る作業が行われている事だろう。
今から帰るね
既読
あと十分くらいかな
既読
ニラと牡蠣の水炊き
既読
わかった
既読
いつもはLINEスタンプだけの返信が、昼下がりのドラマを切り取ったように「何時頃帰るの」「夕食はなに」「気をつけて帰って」と不自然なまでに|饒舌《じょうぜつ》だった。
(・・・・やっぱりそうだったんだ)
真昼は大きなため息を吐いた。