テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
王太子府の一角にある、小さな一室。
市場で誘われてから数日後、縫季は心臓の騒ぎを「これは単なる任務への緊張だ」と自分に言い聞かせ、帝辛の前に座っていた。
敷かれた筵の上は、足裏が少しだけ沈む。
静けさが、音より先に肌へ触れてくる。
外の喧噪は壁に吸われ、残るのは湯の立つ気配と、器が冷えを抱えている匂いだけだった。
帝辛は手慣れた所作で湯を沸かしている。
湯気に指先をさっとくぐらせ、その温度を確かめた。
熱すぎず、かといって冷めてもいない。
茶の香りが最も美しく立ち上がる、針の穴を通すような頃合い。
それから彼は、いったん湯を茶碗へ回し入れた。
碗の内側を温めるだけ温め、すぐに捨てる。
捨て湯が器に触れる音さえ、ほとんど立たない。
布が、碗の底をひと撫でする。湿り気を残さない。
注ぐ湯の量も、迷いがない。ひと息で、ちょうど同じ線で止まる。
茶碗を置くとき、帝辛は無意識にその『向き』を縫季の指がかけやすい角度へ揃えた。
――気遣いというより、癖だ。
人の手元を見て、その場で整える。政務のときと同じ。
「……そなた、あの場で驚いたはずだ」
不意の言葉に、縫季の肩が跳ねた。
帝辛は茶碗を温めながら、いたずらっぽく――けれど目だけは、笑っていない。
「驚いていたのに、呼吸が乱れなかった。……官吏というのは、皆そうなのか?」
喉が乾く。
縫季は部屋の静けさの中で、自分の息の音が途端に邪魔に思えた。
乱れていないと指摘された瞬間から、乱れたくなる。
そういうものだ、と腹の奥で誰かが言う。
「……習い性です」
帝辛はふっと目を細めた。
「習い性。なるほど。ではもう一つ。そなたの郷里の冬は、どんな匂いがする?」
縫季は、答えの形を探して、ほんの一拍遅れた。
地名を言う必要はない。匂いだ。匂いなら、どれだけでも誤魔化せるはずなのに――なぜか舌の先が鈍る。
帝辛はその沈黙を追い立てない。
追い立てない代わりに、目を逸らさない。
湯の温度を確かめるときの指先みたいに、こちらの揺れを正確に測ってくる。
「……冷えた土と、薪の煙。そういう匂いです」
「ふむ」
それだけで帝辛は満足したような顔をした。
満足した、というより――確かめた。そんなふうに見えた。
帝辛は温めた碗を縫季の前に置いた。
茶碗の縁が、指の腹に触れた瞬間だけ、あたたかい。
熱いのではなく、ほどけるような温度だった。
「……そなた、私の笑みを見ていただろう」
不意の言葉に、縫季の肩がわずかに跳ねた。
帝辛は茶碗を温める湯を捨て、布で底をひと撫でする。音を立てない。
それから顔を上げた。
湯気の向こうの視線が、縫季の呼吸だけを選んで絡め取る。
「否定は要らぬ。見ていた」
――来た。
縫季は、自分の心臓の音に苛立った。
年下の王太子ひとりに、何を乱されている。
そのはずなのに、言葉ひとつでこちらの足元を揺らしてくる。
帝辛は茶葉を量り、湯を注ぐ。湯の線が一定の高さで止まる。
その正確さが、余計に腹立たしい。
「官吏は皆、礼儀正しく私を見る。正しい距離で、正しい顔で」
帝辛は淡々と言った。
「だが、そなたは違った。……顔が変わった」
「殿下、私は――」
「『殿下』で逃げるな」
優しい声なのに、逃げ方だけを先回りして塞がれる。
そして帝辛は、すぐに続けた。
「……年上ぶる癖があるな、そなた」
縫季の喉が、ひゅっと鳴る。
それを見た帝辛は、わずかに目を細めた。
その目が、分かっていてやっている目だった。
「私が年下だと思って、落ち着こうとしていた」
そう言いながら、帝辛は縫季の碗に茶を少し継いだ。
「今も。そうしている」
胸の奥が熱を持つ。
図星を突かれた怒りと、図星を突かれた恥が、一緒に湧く。
「安心したいなら、別に構わぬ」
帝辛は涼しい顔で言った。
「だが、安心するふりをして、目だけは私を追う。……不器用だな」
縫季は茶碗に触れかけて、止めた。
指先が、自分のものではないように鈍い。
「あのとき、そなたは怒っていた」
「……怒ってなど」
帝辛は首を僅かに傾ける。
「怒っていた。だが――」
一拍。湯気が白く膨らむ。
「……怒り方が、綺麗だった」
「……」
綺麗。顔。自分の。
それを、年下が、言う。
「……今、何と」
「聞き返すな」
帝辛は即座に切った。
一拍。
それから堪えきれなかったように、帝辛は喉の奥で笑った。
くす、と。湯気に紛れるほどの、年相応の笑いだ。
「……そなたが困るのが、面白くてな」
コメント
1件
第8話、読ませていただきました。 お茶を点てる手つきのひとつひとつに帝辛の“見る目”が透けていて、あの静けさの中で縫季の呼吸だけが浮き立つようでした。「怒り方が綺麗だった」って、ああいう言い方で心臓を掴まれるんだな…。年下にあそこまで見透かされているのに、逃げきれない距離感が切なくて、でも目が離せなかったです。続きが気になります。