テラーノベル
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王太子府の一角にある、小さな一室。
市場で誘われてから数日後、縫季は心臓の騒ぎを「これは単なる任務への緊張だ」と自分に言い聞かせ、帝辛の前に座っていた。
敷かれた筵の上は、足裏が少しだけ沈む。静けさが、音より先に肌へ触れてくる。
外の喧噪は壁に吸われ、残るのは湯の立つ気配と、器が冷えを抱えている匂いだけだった。
帝辛は手慣れた所作で湯を沸かしている。
湯気に指先をさっとくぐらせ、その温度を確かめた。熱すぎず、かといって冷めてもいない。茶の香りが最も美しく立ち上がる、針の穴を通すような頃合い。
それから彼は、いったん湯を茶碗へ回し入れた。碗の内側を温めるだけ温め、すぐに捨てる。
捨て湯が器に触れる音さえ、ほとんど立たない。
布が、碗の底をひと撫でする。湿り気を残さない。
注ぐ湯の量も、迷いがない。ひと息で、ちょうど同じ線で止まる。
茶碗を置くとき、帝辛は無意識にその『向き』を縫季の指がかけやすい角度へ揃えた。
――気遣いというより、癖だ。
人の手元を見て、その場で整える。政務のときと同じ。
「……そなた、あの場で驚いたはずだ」
不意の言葉に、縫季の肩が跳ねた。
帝辛は茶碗を温めながら、いたずらっぽく――けれど目だけは、笑っていない。
「驚いていたのに、呼吸が乱れなかった。……官吏というのは、皆そうなのか?」
喉が乾く。
縫季は部屋の静けさの中で、自分の息の音が途端に邪魔に思えた。乱れていないと指摘された瞬間から、乱れたくなる。そういうものだ、と腹の奥で誰かが言う。
「……習い性です」
帝辛はふっと目を細めた。
「習い性。なるほど。ではもう一つ。そなたの郷里の冬は、どんな匂いがする?」
縫季は、答えの形を探して、ほんの一拍遅れた。
地名を言う必要はない。匂いだ。匂いなら、どれだけでも誤魔化せるはずなのに――なぜか舌の先が鈍る。
帝辛はその沈黙を追い立てない。追い立てない代わりに、目を逸らさない。
湯の温度を確かめるときの指先みたいに、こちらの揺れを正確に測ってくる。
「……冷えた土と、薪の煙。そういう匂いです」
「ふむ」
それだけで帝辛は満足したような顔をした。
満足した、というより――確かめた。そんなふうに見えた。
帝辛は温めた碗を縫季の前に置いた。
茶碗の縁が、指の腹に触れた瞬間だけ、あたたかい。熱いのではなく、ほどけるような温度だった。
「……そなた、私の笑みを見ていただろう」
不意の言葉に、縫季の肩がわずかに跳ねた。
帝辛は茶碗を温める湯を捨て、布で底をひと撫でする。音を立てない。
それから顔を上げた。
湯気の向こうの視線が、縫季の呼吸だけを選んで絡め取る。
「否定は要らぬ。見ていた」
――来た。
縫季は、自分の心臓の音に苛立った。
年下の王太子ひとりに、何を乱されている。
そのはずなのに、言葉ひとつでこちらの足元を揺らしてくる。
帝辛は茶葉を量り、湯を注ぐ。湯の線が一定の高さで止まる。
その正確さが、余計に腹立たしい。
「官吏は皆、礼儀正しく私を見る。正しい距離で、正しい顔で」
帝辛は淡々と言った。
「だが、そなたは違った。……顔が変わった」
「殿下、私は――」
「『殿下』で逃げるな」
優しい声なのに、逃げ方だけを先回りして塞がれる。
そして帝辛は、すぐに続けた。
「……年上ぶる癖があるな、そなた」
縫季の喉が、ひゅっと鳴る。
それを見た帝辛は、わずかに目を細めた。
その目が、分かっていてやっている目だった。
「私が年下だと思って、落ち着こうとしていた」
そう言いながら、帝辛は縫季の碗に茶を少し継いだ。
「今も。そうしている」
胸の奥が熱を持つ。
図星を突かれた怒りと、図星を突かれた恥が、一緒に湧く。
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
「安心したいなら、別に構わぬ」
帝辛は涼しい顔で言った。
「だが、安心するふりをして、目だけは私を追う。……不器用だな」
縫季は茶碗に触れかけて、止めた。
指先が、自分のものではないように鈍い。
「あのとき、そなたは怒っていた」
「……怒ってなど」
帝辛は首を僅かに傾ける。
「怒っていた。だが――」
一拍。湯気が白く膨らむ。
「……怒り方が、綺麗だった」
「……」
綺麗。顔。自分の。
それを、年下が、言う。
「……今、何と」
「聞き返すな」
帝辛は即座に切った。
一拍。
それから堪えきれなかったように、帝辛は喉の奥で笑った。
くす、と。湯気に紛れるほどの、年相応の笑いだ。
「……そなたが困るのが、面白くてな」
言い終える前に口元がまた緩み、短い息が漏れる。
縫季の胸が、変に跳ねた。
「……っ、笑うな」
思ったより低い声が出て、縫季は自分で自分に驚く。
頬に熱が走った。――しまった、と思うより先に、咳払いが喉を突いた。
「……失礼」
何事もなかった顔を作り直す。作り直せているかは、知らない。
「……悪い。だが、目が逸れぬ」
コメント
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第8話、読ませていただきました。 お茶を点てる手つきのひとつひとつに帝辛の“見る目”が透けていて、あの静けさの中で縫季の呼吸だけが浮き立つようでした。「怒り方が綺麗だった」って、ああいう言い方で心臓を掴まれるんだな…。年下にあそこまで見透かされているのに、逃げきれない距離感が切なくて、でも目が離せなかったです。続きが気になります。