テラーノベル
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朝。
清朗は荷を抱えて部屋を出た。
廊下を歩く。足が重い。重いのに、音は軽い。
手が震えている。止めようとする。止まらない。昨夜からずっと。甘い匂いが、どこにもない。匂いがないだけで、世界が薄い。
喉を鳴らして唾を飲み込もうとした。うまく落ちない。舌の裏が乾いている。乾いているのに、甘さだけが残像みたいにまとわりつく。
指先が冷たい。冷たいのに、胸の奥だけが熱い。熱が皮膚の内側を這って、呼吸を浅くする。
廊下の柱が、遠くなる。近くなる。
清朗は足を止めた。壁に手をつく。木の感触が、やけに硬い。
ふと、甘い匂いがした。一瞬だけ。息を吸い込んだ瞬間に、消える。
喉が鳴った。欲しがっている音だった。
(……情けない)
清朗は奥歯を噛んだ。噛んで、また歩き出す。
(縫季が)
歯を食いしばった。考えるな。考えても、何も変わらない。
あいつは殿下を守った。それだけだ。
足が、また重くなる。
中庭へ出る。空が白い。白さが、目に痛い。
「清朗、遅い」
ふと、声がした。
違う。したような気がしただけだ。
清朗は立ち止まった。
一度だけ、瞼を閉じた。開いた。
中庭は静かだった。誰もいない。いるはずがない。
(……行くぞ)
自分に言い聞かせるように、足を踏み出した。
宮門が見えてくる。政務の間の方角が、視界の端に入る。
清朗は、そちらを見なかった。
(縫季が正しかったとしても)
足が止まりかける。止めない。
(あいつが殿下を守ったとしても)
拳を握る。爪が掌に食い込む。
(それでも)
それでも、何だ。
清朗は答えを出さなかった。出せなかった。出す前に、また足を動かした。
宮門の前に馬車が待っていた。
「清朗殿。こちらです」
清朗は頷いた。
遠くの回廊に、人影が見えた。
帝辛だ。
殿下が、こちらを見ている。
清朗の足が、一瞬だけ止まった。
止まったのは一瞬だけだ。
深く頭を下げた。
それから――
清朗は、馬車の扉に手をかけた。
冷たい木。指先に、ざらついた感触。
手が震える。震えたまま、止まらない。
(……開けられない)
清朗は奥歯を噛んだ。噛んで、息を吸う。吸ったはずなのに、胸が満たされない。舌の裏が乾いている。乾いたまま、甘い匂いの幻が鼻を掠める。
欲しい。
喉が鳴る。自分の喉の音が、いやに大きい。
(……違う)
欲しいのは香じゃない。
清朗は扉から手を離した。
振り返る。
遠くの回廊に、帝辛がいる。動かない。ただ、こちらを見ている。
「清朗殿」
隣に立つ官吏の声。朝の光みたいに冷たい。
「お急ぎください」
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#ダークファンタジー
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115
#BL
#転生
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409
清朗はその官吏を見た。
目が合わなかった。合わせようとしていない。清朗を見ているのに、清朗を見ていない目だった。
子嘉の名が出た後から、ずっとこうだ。書簡を渡す手つきが雑になった。先を歩く時、振り返らなくなった。
血の薄い者には、こういう顔をする。
清朗は何も言わなかった。
言える立場じゃない。もう、ない。
「……分かった」
声が掠れた。掠れたまま、もう一度帝辛を見た。
帝辛は動かない。静かに、立っている。
(殿下)
心の中で呼ぶ。声には出さない。出したら、走る。走ったら、止まれない。
清朗は扉を開けた。
暗い中が、口を開けている。
一歩。
踏み込めなかった。
足が、止まった。
(……やめろ)
自分に言い聞かせる。行け。乗れ。終わらせろ。
足が言うことを聞かない。
香のない身体は、もう自分の命令より強い。
「清朗殿」
官吏の声が、もう一度来る。
今度は少しだけ低い。急かす声ではない。始末を急かす声だ。
清朗の胸の奥で、何かがざわついた。
(縫季が)
歯を食いしばった。考えるな。あいつは殿下を守った。それだけだ。それだけのことだ。
足が、また重くなる。
「殿下……!」
声が出た。出てしまった。
気づいたら走っていた。宮門から回廊へ。帝辛の方へ。
コメント
1件
「殿下……!」って叫んで走り出す清朗の一瞬の決断、すごく胸にきました。香の禁断症状の描写が生々しくて、手の震えや甘い匂いの幻覚、世界が薄くなる感覚……読んでるこっちまで息苦しくなりました。あの官吏の冷たい視線も、立場の変化を突きつけてくるようで痛かったです。縫季のことを考えまいとしながらも、結局足が止まってしまうもどかしさ。欲しいのは香じゃないって自覚した瞬間、すごく切なかったです。