テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
カチャリと鍵を閉めた瞬間、柊吾は暗い玄関で膝から崩れ落ちた。
静まり返った室内。一人になった途端、抑え込んでいた息が一気に吐き出され、激しい動揺が波のように押し寄せてくる。
膝を抱え、暗がりの中で蹲った。
目を閉じると、これまで瑞樹と過ごした甘い時間が、一つひとつ浮かんでは消えていった。
耳元で囁かれた、優しい声。
愛おしそうに頬を撫でてくれた、あたたかな指先。
何も言わず、ただ慈しむように見つめてくれた穏やかな目。
(……全部、朝倉奏に向けていたものだったんだ)
胸の奥が、ぎりぎりと締めつけられる。
瑞樹が愛していたのは、ここにいる、惨めで怯えた朝倉柊吾ではない。かつて輝いていた、画面の向こうの朝倉奏という幻影だ。自分へ向けられていると思っていた甘い言葉の数々も、過去の残像へ注がれていたものだったのかもしれない。
そう思おうとした。そう思わなければ、今まで受け取ってきた優しさを、これ以上信じてしまいそうだった。
では、自分はどうなのだろう。
ふと、大樹の野性味を帯びた顔が脳裏を掠める。
かつて孤独を紛らわせるため、毎晩のように見ていた動画の男。瑞樹によく似た顔立ち。あの声や仕草に欲望を重ね、画面の中の彼に慰められていた日々。
(……僕も、同じだったんじゃないのか)
冷たい汗が背筋を伝った。
大樹に似ていたから、瑞樹へ惹かれたのだろうか。あの動画の男へ向けていた執着や欲望の続きを、隣人として現れた瑞樹に求めただけなのだろうか。
自分の感情さえ信じられなくなり、柊吾は何度も同じ問いを繰り返した。
一晩では、答えなど出なかった。
二日目も、三日目も、柊吾は一人きりの部屋で思考の渦を回り続けた。食事は喉を通らず、夜もまともに眠れない。真理子が心配そうにこちらを見つめるたび、平静を装わなければと無理に口元を緩めた。
余計な心労をかけてはいけない。母を守るために、いつも通りでいなければならない。
頭では分かっているのに、出口のない迷路に迷い込んだように、思考は暗闇の中を彷徨い続けた。
それから一週間。二人の間にあった時間は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
壁の向こうから物音が聞こえても、柊吾は耳を塞いだ。施設からの連絡へ返信するついでに、瑞樹の名前が画面に表示されていないか確認してしまう。最後に届いた『早く会いたい』という文字を見るだけで、胸がきゅっと苦しくなった。
会いたいと思ったのは、朝倉奏だったからなのか。それとも、そんな理由など関係ないと思えるほど、自分自身を好きでいてくれたのか。
本人に聞いてみたい。けれど、やはり怖かった。
何度も画面を開いては閉じる。それでも、自分から連絡を送ることはできない。答えの出ない自問自答を繰り返すうち、身体は重くなり、頭の奥には鈍い痛みが居座った。
それでも、どれだけ自分を疑い、瑞樹との過去を疑っても、最後まで消せなかった思いが一つだけ残った。
(……違う)
暗い自室のベッドの上で、柊吾はぽつりと呟いた。
始まりがどれほど歪んでいたとしても、そこにどれほど恐ろしい真相が隠されていたとしても。
自分が惹かれ、愛したのは、毎朝「おはようございます」と柔らかく目を細める瑞樹だった。真理子の介護に押し潰されそうだった自分を、壊れもののようにそっと抱きしめてくれた、あの人そのものだった。
動画の中の男でもない。かつての朝倉奏を追いかける誰かでもない。
(僕が好きなのは、黒瀬瑞樹だ)
その答えにたどり着いた途端、胸の奥が痛いほど締めつけられた。
(話がしたい……黒瀬さんと、ちゃんと)
幻想でも、過去の残像でもない。すべての泥を吐き出すような現実に向き合って、もう一度、瑞樹と話がしたい。
そう決めた柊吾は、重い身体を起こして居間へ向かった。
その時だった。
#BL
ciel
1,148
コメント
1件
このエピソード、すごく胸に刺さりました……。柊吾が「僕が好きなのは黒瀬瑞樹だ」と自分自身に言い聞かせるように辿り着くところ、本当に苦しくて切なくて。始まりがどんなに歪んでいても、それでも隣にいた“あの人そのもの”を愛しているって気づくまでの迷いや自己嫌悪の描写が丁寧で、思わず息を止めて読んでいました。話したい、と決意して動き出したところで終わるのも、続きが気になって仕方ないです。