「ふうん。それは随分と多くの敵を作ったんじゃない?」とベルニージュが穏やかに言った。
夕食後に暖炉の前で寛ぐ家族の団欒のような雰囲気だが、ここは街道から外れた荒涼とした野原で、不思議な熱の渦巻く寒さ除けがなければ心の臓まで凍り付きかねない。残照は一掃され、星々は一つの欠けもなく勢ぞろいしたが、見張り番の夜はまだ始まったばかりで、交代の時間はまだまだ先だ。
「ああ。権力者には求められも疎まれもしたが、魔法使いには概ね忌み嫌われていたようだ」と答えた記す者は逆に追い詰められているかのような様子だ。
一見色白の肌に皴が刻まれつつある中年の男で、長い足を折りたたむように縮こまって朽ちた切り株に座っている。そして背丈と変わらない長さの腕が六本あった。そのどれもが個別に意志を持っているかのように動き、平らな石や鍋の裏を文机代わりにして使い古された羊皮紙に書きつけている。書付はベルニージュに渡し、ベルニージュが読み終えたものを受け取って削り取り、また新たに書きつける。
ベルニージュの方は以前に救済機構の拠点ロガット市の砦で手に入れた銀の書字板と記す者の書きつけを見比べている。まるであえて契約書の瑕疵を求めるならず者のように。
「そりゃあね。知識は武器だから。欲しいし、渡したくない。魔導書と同じだね」
「筆者は」と記す者は自分のことをそう言った。「全ての知識を全ての人間が知るべきだと思う。あくまで理想として。無理だということは分かっているがな」
「全人類が全知? そんな良いものかな?」ベルニージュのその言葉は否定ではなく、想像だった。
記す者は街道の反対側、暗闇に沈んだ森の方に視線を向ける。もしも口元を血に濡らした怪物が王の差し向けた戦士たちの刃から逃れるならばこのような森だろう。
「そこに何がいるか知っていれば暗闇を恐れる必要はないだろう」と記す者は答える。
「それを言うなら知識こそが明かりだと思うけど」
「揚げ足を取るな。どちらに喩えても同じことだ」
「違うね。そもそも比喩として半端だよ。無知蒙昧を暗闇に喩えるなら知識を光に喩えるのは至極当然」
記す者は何か言い返そうとしたが、ぐっと呑み込み、書きつけに戻る。
ベルニージュは、記す者が六本の腕で書く以上の速さで書きつけを読んでしまうので銀の書字板に映った自分の顔に意識が移る。
ベルニージュにとって自分の顔はいつも新鮮だ。自分についての新しい記憶を保てない特殊な記憶喪失のせいだ。そうは言っても顔は早々変化しないので、いつかの記憶喪失した瞬間以前と比べて大きな違いがあるわけではない。しかし最近、なぜか気になるのだ。銀の書字板でよく顔を見るせいだろうか、とも考えるが、それ以前がどうだったかは思い出せない。
髪も眉も睫毛も瞳も赤い。肌は青白い。変ではないだろうか? 他人にはどう見えているのだろうか? 痩せ細っていることに関しては度々ユカリに心配されるが、それを除けば容姿や体型について旅の仲間たちと話したことは無い、もしくは記憶にない。何より、どうしてこんなに気にしてしまうのだろう。
ふと書字板の端にぼうっと輝く月に気づき、気まずい気分になって顔を上げる。記す者の方を見ると六つの手を止め、星を眺めていた。
「何を怠けてるの?」
ベルニージュがそう言うと記す者はじろりと睨みつけ、四十三本の指の内の一本でベルニージュの隣を指さす。そこに既に羊皮紙が積んであった。
翌日の日暮れ前のことだ。最後とばかりに燃える太陽と森から溢れ出る黒い影の間で、使い魔たちにも手伝ってもらいながら野営と食事の準備をしていた。
ベルニージュは今日も記す者に研究の手伝いを頼もうとした。前夜の働きを感謝し、今夜の働きにも事前に感謝する。
返ってきたのは「もう沢山だ」という言葉だった。
「ん? 何が?」
「もう疲れた! 連日連夜。酷使されることにな!」と記す者が大きな声で訴える。
「疲れた? 使い魔は疲れないよね?」ベルニージュもまた他の何人かの使い魔にも聞こえるように言う。「ね!?」
「ああ、そうだ。だけど感情はある。負の感情もな。面倒だ。やりたくない。意味がない。筆者にとって意義がない作業だ」
そこへいつでも陽気な格好のお道化る者がやってきて、これからお祭りでも始まるかのような浮かれ気分で声をかけてくる。
「どうしたの? あんたたち、喧嘩? らしくないんじゃない? 楽しくないんじゃない?」
「意義ならあるでしょ?」とベルニージュは道化を視界の端に置いたまま、筆記を司る使い魔に言い返す。「呪文をあらゆる言語に訳する総当たり作戦なんて記す者にしかできない」
「そういう話じゃない。大体まるで筆者の主であるかのように振舞うのが間違いだというんだ。そう。それだ。使い魔たちなら皆わかる。使われる者の気持ちがな! お道化る者。君もそう思うだろう?」
「え? あたし?」不意に標的にされた道化師はそこに過去が漂っているかのように視線を宙に彷徨わせる。「……まあそうだけど、まずは両者の言い分を聞かないと、どちらかの味方はできないかな。ユカリ。君もそう思うだろう?」
「え? 私?」ユカリはユビスに積んでいた食料の備蓄を数えていたところだった。「っていうか何の話?」
「裁判をしようって話だよ」とお道化る者は言った。
「本当に何の話なの?」
こうして第一回魔法少女一行内紛争調停が開かれることと相成った。
「裁判じゃなかったの?」とユカリ調停委員はうんざりした様子で言った。
「法がないので」お道化る者調停委員は言い、さらに付け加える。「あと後で裁く者に怒られそうなので」
久々に多くの使い魔が顕現し、二十人以上が焚火を囲み、食事のついでに調停が始まったのだった。酒も入った。
「筆者の要求は単純にして明解」と記す者が切り出す。「これ以上ベルニージュの私事に筆者を巻き込まないで欲しい。筆者のようなユカリ派はあくまでユカリこそが魔導書の行く末を決めるべきだと考え、協力しているんだ。たとえユカリに協力してきた人物であろうと好き勝手に使われるのは困る」
「誤解しているかもしれないから言っておくけど」とベルニージュがすぐさま調停委員の方に説明する。「別に【命令】していた訳じゃないからね。あくまでお願いして協力してもらっていただけ。今まではね」
記す者が油を投じられた火のように勢い盛んに言い返す。
「聞いたか!? 場合によっては【命令】も辞さないということだ」
「だって理由が不可解なんだもん。使い魔は疲労しないし、何か別の活動を邪魔しているわけでもない。隙間時間に研究の手伝いをしてもらっているだけだよ? それがどうして不快になるわけ?」
「何度も言っているが、我々の多くは使われることに心の傷を持っている者が多く――」
「嫌なら断っても良いんだよ。これまでそうしなかったのは何故?」
「ベルちゃんのような女の子には分からないだろうけれど。言いたくても言えないことがあるものよ」と涙声で言ったのは泣く者だった。
「あ、ずるい。魔法を使うのは無しでしょ!」とベルニージュが抗議する。
「使ってないですー。泣き落とししてるだけですー」と泣く者は一層涙を流す。
「一旦休息をあげなよ」と結論を急ぐユカリ調停委員がベルニージュに見解を述べると、記す者寄りの使い魔たちが歓声をあげた。
「どっちの味方なの!?」そう言ってベルニージュもまた身を乗り出した。
「中立だよ。調停委員なんだから」とユカリ調停委員は事務的に返す。「ところで何を研究してるの?」
「人造魔導書だよ」そう言ってベルニージュは銀の書字板を取り出してユカリに見せる。「救済機構に負……、一時的に後れを取ってるからね」
ユカリはそれを受け取り、目を丸くする。「クオルの使ってたあの大量の粘土板がもうこれ一枚で済んでるの?」
「そうなんだよ! 一年も経たずしてね! まだまだ魔導書には及ばないけど、放っておけばいずれ脅威になる! そういう意味ではこれはユカリの魔導書収集の障害を取り除くための崇高な研究と言えるわけ!」
「なるほどね」とユカリは神妙な面持ちで手の中の書字板を眺める。
趨勢の変化に使い魔たちが警戒する。中にはそれが理由ならば、と迷っている者もいる。
「てっきり使い魔を救うための研究をしてくれているのかと思った」ユカリは失望した様子を隠さずに言った。
「そうだ。今では我々は我々のために働きたいとも思っている」と記す者が流れに乗って勢いを取り戻す。「ただユカリに従うだけでなく、この心を、魂を守るために!」
使い魔たちの喝采が夜の星を揺らめかせるほどに響く。と、同時にベルニージュの頭の中に閃きが迸った。まるで喝采の儀式に発想が呼応したかのようだ。
「それこそ!」とベルニージュが喜びと威厳に満ちた声で言うと辺りは静まり返った。「人造魔導書の行き着く先は魔導書の再現であり、魔導書の再現はワタシの夢の道程であり、前提だよ。ワタシの野望はユカリの願いで、あんたたち使い魔の悲願ってこと! いくつか調べてみないと分からないけど、封印以外の方法であんたたち使い魔を呼び出せるかもしれない」
花弁の地に落ちる音すらも聞こえそうな静寂が辺りに満ちる。風の音も、虫や獣の鳴き声も息を合わせたかのように沈黙し、代わりに各々の使い魔の頭の中でベルニージュの言葉が反響した。そしてその意味の結実する瞬間、先ほどの喝采とは比べ物にならない悲鳴の如き喜びの声が野原に響き渡った。異様な気配に惹きつけられて闇の奥から焚火を見つめていた黄色い目の魔性たちは打って変わって波を返すように背を向けて逃げ出した。
こうして第一回魔法少女一行内紛争調停は多数の使い魔の後押しにより、記す者が妥協する形で決着し、それは第二回魔法少女一行内紛争調停を引き起こす切欠、全ての使い魔の酷使へと繋がったのだった。
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